文学フリマ東京(2022.5)で買った本の感想

夜更けまでと夜更けからの現在地すれちがうもちきりやわんさか

/カリフォルニア檸檬『み未して視みうつつひみづ』

抽象的な次元の移動感覚をみせてくれた。

 

 

しりとりと逃水いくばくかの現金

/大塚凱『ねじまわし第3号』

逃水、で想起される季節感に「しりとり」と「いくばくかの現金」っていう絶妙にダルそうなものを組み合わせるのすごいわかる(勝手にわかるな)。

 

 

それはそう 生活が見えない人を好きになっても無駄なんだけど

/豊冨瑞歩『展開』

こわすぎ。

 

 

輪っかになった絆創膏がお風呂場の排水口に流されて行く

/花山周子『外出7号』

「輪っかになった絆創膏」を見逃さない……のはすごい。

 

 

大きく磨き離れて見てはまた拭いて 見上げて磨きあげられてゆく

/浪江まき子『波長創刊号』

シンプルに、字空けで視点切り替わるの気持ち良い。

 

 

路地の奥くろねこが消えたその先に”トゲヌキマス”の低い看板

/今哀子『メルクマール・メルルマーク』

「低い看板」でめっちゃぐっと歌が迫ってきた。よくわからないものを見てるな……。

 

 

社会人になった先輩のネックレス静かに高そうな十八時

/乾遥香『10月生まれ』

妙に清々しい感じ、十八時が割と効いてるのかな。

 

 

大きいと思った魚より大きい人が水草を植え替えている

/川島結佳子『くくるす第1号』

マトリョーシカっぽい構造の歌ってたまに無性に味わいたくなる。

 

 

花といえば桜になるのは変だけど、花なんて桜しか知らないな

/青松輝『いちばん有名な夜の想像にそなえて』

なんか謎に強がっている(?)感がかわいい。

 

 

掘り炬燵の下で一世紀を生きた人たちという意味に転じた

/瀬口真司『いちばん有名な夜の想像にそなえて』

意味に転じる前の世界の複雑さを、思う。

 

 

 

 

川柳五十一句「療養」

療養 郡司和斗

 

おすすめの憲法はCCレモン

 

傾きがマジックミラー号なのに

 

キムチだけでも覚えて帰って

 

賢者ならホットパンツの色選び

 

見上げれば別の宇宙の文化の日

 

カメラワークが湯豆腐だった

 

探偵も歌っているよ海の絵に

 

太宰さんだけ会計で笑ってる

 

水飲んで優勝 株をやったばかりに……

 

こわくないケーキなんてあるのか

 

考察を握っていると駅が減る

 

あいみょんの歌詞とゆっくり蒸されたら

 

瞬間と一瞬の違いがグミに

 

夢ならば鰻だいすき縫うように

 

出勤の電気が濡れている時間

 

もう一度虹の知性の泣きどころ

 

舞台挨拶は女体化するように

 

自転車の集まるところに前操作期

 

逆転のふんどしを謹呈しよう

 

生涯に鱸を飾るのはどうか

 

糸目キャラから国葬が好きになる

 

猫好きめっちゃFⅩのこんにちは

 

アリョーシャもフードコートで膝から崩れ

 

寝なくてもムーンサルトは擦れている

 

極音の過去よ わかります。

 

力まれた英語のことも考えて?

 

苺柄ならこの剣を抜けるはず

 

うるおいが補欠選挙を立て直す

 

声が小さくて夏が終わりそうにない

 

男なら紫陽花の中に透けてこそ

 

地図は燃えつきたドーナツの穴を覗く

 

日々に樹々 毒の話に飽きてきて

 

魔が差して蟹に夢中の物語

 

精液も分かれて大阪と京都

 

kiss and 真っ暗 インテルの 森林 

 

阿修羅ちゃんも阿修羅くんも酢の匂い

 

恋愛……になりますよみかんを剥けば

 

皮肉でも百円玉が裏返る

 

会いたくて氷の中の総集編

 

眼力で花火をなぐさめた男

 

タイム・イズ・タイム けいおんしてられない

 

月に雨いま刺青の入れどきよ

 

剣道三段からが運のつき

 

バリアーと叫べば祭の最新話

 

矛盾のうちに歯を磨け 

 

授賞式で薬のようにダンスしよう

 

神回にしてはうどんが頼もしい

 

戦国が伸びてきて楽団をつくる

 

陽がみえてもう蚊柱を過ぎていた

 

襟足が長いと海の不登校

 

あくび・まだ・先史を生きている・桜

 

俳句三十句連作「塔」

塔  郡司和斗
  
木の駅の影青々とこどもの日 


更衣鏡の中を鳥一羽


朝蝉や半紙の表てらりとす  


枇杷の実や仕切りの多き進路室  


炎昼をざんと光りし滑り台   


あやとりの塔ゆふぐれはゆふやけへ    


彫像の小さきペニスを天道虫


黒鍵の隙間へ落つる玉の汗


油絵の具のざらついて裸かな


いろはすの捻らるる音天の川

 

たうがらし渚にうすみどりの瓶 


かがやきは雲間の蒼を冷えにけり


名月やレジを幾百打ち終へて  


未明それから葡萄の旬の過ぐるころ


秋晴れの海へ向きたる梟首かな


秋の初霜を蛇行の兄と姉  


冬の象鼻打ちつける打ちつけ合ふ


半地下のカレー屋しづか冬の昼


聖樹みな玉をぶらさげそよぎけり


たいやきは腹から食ふ派初日影


定義上森の大学枯木星

 

おとうとをまどかな氷柱だと思ふ


パフェの生地厚く伸ばされ春隣り


春の川自転車のベル鳴らし合ふ


うららかやパンからパンへゆくトング


閉店の「蛍の光」春の闇


ひらきたる星の図鑑や蠅生る


立夏なり貝の博物館をゆく 


いちめんの蛍火引つ越しは明日


自画像の頬やせてゐる浴衣かな  

 

(第十回俳句四季新人賞の応募作、結果は落選で対馬康子の三席、二十句くらい既発表)

文芸同人誌「焚火」発売

【内容】

①過去の読書会

大木あまり『遊星』

イシグロキョウヘイ 映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』

平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

鴇田智哉『エレメンツ』

笹井宏之賞「ねむらない樹vol.6」

津川絵理子『夜の水平線』

 

②誌上読書会

石松佳『針葉樹林』2万字程度

(郡司和斗+本野桜魚+安里琉太)

 

堀本裕樹『一栗』

(急遽収録)

 

③招待作品

阿部圭吾

川谷ふじの

佐倉誰

中矢温

横井来季

若林哲哉

 

④同人作品

本野桜魚(散文+俳句)

郡司和斗(短歌+俳句+詩)

 

 

焚火創刊号 | りんしん書房

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川柳っぽさとは?

「かりん」2021.11月号 今月のスポット

 

 髙良真実さんに送ってもらって『川柳スパイラル・第12号』を読んだ。『川柳スパイラル』は小池正博さんが発行している川柳雑誌で、同人誌と結社誌の間のような誌面構成になっている。12号以前の目次はまったく知らないのだが、今号に関しては短歌制作者として名前をよく見る方々がちらほらとゲストで寄稿している。瀬戸夏子、高良真実、川野芽生、乾遥香、牛尾今日子。そのうち川柳を寄稿しているのは後ろの三人。作品をいくつか引く。

   角砂糖のやうに砕けて惑星は

   はなびらの代わりに髪の毛を毟る

   「チュールスカートのままで」川野芽生

 

   二〇一七年そして一九年

   六月生まれのかしこいおしり

   「夢と魔法」乾遥香

 

   全身をえびのしっぽと思うまで

   おがくずが多くて上手く眠れない

   マリンバを拾いあつめて並べ替え

   「夏草」牛尾今日子

 現代川柳についての知識が僕は少ないので正確なことは何も言えないのだけど、川野芽生の作品は短い「短歌」だなと思う。一句目は惑星の崩壊を角砂糖が砕ける様に喩えてみせているわけだが、さほど無理のない比喩で一句の整合性は高いように思う。二句目も同様だ。しかしこれだと普段読んでいる短歌の読み味とそこまで大差がない。

 一方で乾遥香と牛尾今日子の作品はある程度「川柳」っぽいなと思う。乾の一句目は「西暦」と「そして」しか使われていない。特に意味論的な解釈を求めているようには見えず、意識的に連続性を断ち切る作りになっている。牛尾の句も全体的に文脈が入り混じる傾向を持っている。断片だけが提示され、何か価値判断を拒んでいるような印象を受ける。

 僕が現代川柳を読むときにいつも脳裏に浮かぶのは暮田真名の「川柳は上達するのか?」(『ねむらない樹』vol.6)という文章だ。「頑張り至上主義と結託したマッチョイズムにはもはや一瞬も手を貸したくない」とはとても輝いてみえる宣言である。マイケル・サンデル的なある種のメリトクラシー否定に近い問題提起だと思うが、乾と牛尾の句から「川柳」っぽさを感じるのはそのテーゼを共有しているからなのではないかと感じる(実際に乾と牛尾が暮田の文章を読んでいる可能性は高いが、それとは別に時代的な意識の共有があるだろう)。能力主義、努力主義をこれまで支えてきた日本の文化的・社会的制度の階層性や強靭さを強要する仕組みに苦しめられた人は多いと思うが(例えば受験や部活)、そういうシステムとは離れたところで表現を可能にするのが川柳という詩形なのかもしれない。あくまで暮田の川柳観を借りた解釈だが。ただどうしても、「上達」はしてしまうよなと思う。努力やマッチョから離れようとすればするほど、今度は頑張らないことを頑張るゲームに参入していないか。上手さの尺度を壊しているように読める川柳は、今度はいかに上手く上手さを壊すかを頑張っているように、(書き手は思っていなくとも)読み手としては解釈できてしまう。

諦めからはじめる

「かりん」2021.8 今月のスポット

 

 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』を読んだ。僕の印象だが、既に三、四冊歌集が出ているくらいの認知度が平岡さんにはあると思う。どこの批評会に参加しても毎回パネラーとして居るし、結社、学生短歌会、ツイッターのどこの集まりに行ってもよく言及されている。僕が短歌を書き始めた二〇一七年から二〇二一年今現在まで、若手と括られる中ではずっと話題の中心にいるイメージがある。その平岡さんの第一歌集が出たとなれば、確かに事件だなと思う。

   喪服を脱いだ夜は裸でねむりたいあるいはそれが夢の痣でも

   めをとじて この瞬間に死んでいく人がいるのを嘘だと思う

 死を扱った二首。それぞれ死の「その後」と「最中」を書いている。一首目の、誰かの死後を生きていくことの脱力感、無防備さ。二首目の、今この瞬間にも無数の人が死んでいっていることへの信じられなさ、驚き。どちらの歌も死の受け入れられなさや諦められない感覚を詠んでいるように思えるが、他の歌を見るとその印象が少し違ってくる。

   いつか死ね いつかほんとに死ぬことのあいだにひしめく襞をひろげて

   ああきみは誰も死なない海に来て寿命を決めてから逢いにきて

 一首目、いつか死ねと言わずとも、大抵の生き物はいつか死ぬ。そしていつかほんとに来るその死を主体は自覚している。二首目も、いつか来る死を読者に突きつけるような内容になっている。この二首を読んで思うのは、「人生のタイムリミットの自覚」だ。「喪服~」と「めをとじて~」の歌は一種の諦められなさを詠んでいると書いたが、この二首を踏まえると、逆に限界を自覚しているからこそ出てきた諦念の言葉なのだとわかる。

 穂村弘はインタビュー等で「若いころはほんとに死ぬなんて考えたこともなかった」という趣旨の発言をたびたび繰り返しているが、ある意味そういった甘さは『みじかい髪も長い髪も炎』からは排除されている。その諦観に立った上で、平岡直子の歌は成立しているのではないかと思う(雑に歌を引けば、〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉、〈海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した〉)。

 ただ少し付け加えると、この歌集は、諦観に立った「生き延びる」という方略の一歩先にも足を伸ばしている。それが何かと言うと、自分の弱さを安易に差し出さないところだ。弱さを媒介とした自他の同化をせず、一線を引いた上で、斜め前を歩いていてくれる。そしてたまに振り返ってくれる歌集なのだ。

 統一的に語ることが難しい歌集だと思う。パワーフレーズのラッシュとも幻視とも言い難い歌の構造をしている。あとがきの言葉を借りれば、夢の中を覗いているようだ、とも言えるが、それも何か違う。パラレルワールドを同時に体験しているような感覚がある。語ることはゆるしても言い切ることはゆるさない力が歌集から読者に向かって働きかけられている気がするのだ。だからこそ何度も何度もこの歌集を読み返したくなる。

アニメ・漫画は短歌にどのように詠まれてきたか

「かりん」2021.5月号 「今月のスポット」

 

 三月八日に『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開された。本作はさまざまな事情により二度の公開延期が行われており、最初に予定されていた二〇二〇年六月二十七日からは約九ヵ月も遅れることになった。僕も十日には映画館へ足を運び、十数年分の思いを募らせながら『シンエヴァ』を観た。当然ながら映像の完成度は高く、振り返ればここ数十年間、日本のアニメーションのトップはずっとエヴァだったのだなと思わされた。

   今日もまた渚カヲルが凍蝶の愛を語りに来る春である/黒瀬珂瀾『黒耀宮』

   綾波レイの髪より青きものありて西一駐車場の青空/生沼義朗『水は襤褸に』

 アニメ・漫画を題材にした歌として非常に有名な二首。どちらもエヴァのキャラクターである「渚カヲル」、「綾波レイ」を詠みこんでいる。一首目、エヴァの世界は一年を通して常夏状態なので、春は現実世界のことだろう。渚カヲルが凍蝶の愛を語りに来てもおかしくないような、美しさと愛と神秘を持った春を慈しんでいる。二首目、髪の青さと空の青さを重ねることで互いの色がより鮮やかに想起される。『黒耀宮』、『水は襤褸に』、ともにゼロ年代の歌集だが、そこから十数年を経て、サブカルチャーを引用した短歌にはどのような変化があるのだろうか。

   奪われるための眼だった臆病なきみがおおきく振りかぶるとき

   氷瀑に春が来ること 指三本ずらして打った球の行方は

   榊原紘『悪友』(※榊は正しくはしめすへん)

 『悪友』の連作「サードランナー」の二首。連作タイトルには「漫画『おおきく振りかぶって』より」と言葉が添えてある。『おおきく振りかぶって』を元ネタにしていますよ、二次創作的に作った短歌ですよ、と表明するためのものだろう。一首の外で先に「これから漫画をネタにした短歌が出てきます」と読者に了承をとることで、黒瀬や生沼の作と比べると、一首一首が元作品の世界へより深くもぐりこんでいる。もはや自分がその元作品の登場人物であるかのような距離感だ。おそらく、黒瀬や生沼の作をまったく漫画やアニメを知らない人に見せたとしても、ある程度は何の話をしているのか見当がつくだろう(それこそキャラ名をそのまま入れているくらいだ)。一方で榊原の作を一首だけで見せた場合は、元の作品をそれなりに精読していなければこれが二次創作的なものであることに気が付かないと思われる。ここにわかりやすく姿勢の変化が見て取れる。つまり、オタク的に喩えるならば、黒瀬や生沼の目線がフィギュアやポスターを撮るカメラマンなのに対して、榊原の目線はキャラになりきったり自分自身が撮られたりするコスプレイヤー側なのである。

 この心性の変化には既存の批評理論でいくらか回答を用意できるだろう。消費の観点から大塚英志東浩紀を持ってきてもよいし、コミュニケーションの観点からボカロ等の事例を持ってきて語ってもよい。ただ、それを書いたところでまた「短歌はn年遅れている」と言われるだけな気がするという悩みがある。