郡司和斗『遠い感』書評 遠い世界、遠い感情 貝澤駿一

感情がなんだか遠いな、と、郡司和斗の歌を読んでいると時々思う。感情を吐露することは歌を作る動機のもっとも大きなひとつになりうるものだが、郡司はあまりそれに執着しない。若く、瑞々しい感性を持っている(と言われがちな年代だ)のに、少し珍しいな、と感じてしまう。

少しまってやっぱさっきに打ちあがった花火が最後じゃんかと笑う

遠い感 食後にあけたお手拭きをきらきらきらきら指に巻いてる

 近刊の若手歌集では、口語、もとい実際に口から発せられていることばが容易に定型と一体化し、あるいは侵食して一首を形作ることが多い。本歌集もその例には漏れない。一首目は発話が自然に定型と溶け合いながら、結句の〈笑う〉で視点がやや遠ざかり、散文的になる印象がある。花火大会の終わりという、青春の一場面にいる主体がふっと浮遊して、むしろ小説の語り手やドラマのナレーションのように振舞い始めている。二首目はやや孤独感のある場面だ。「そういうこと、あるよね」という共感を誘うシーンでもある。〈きらきらきらきら〉という単純なオノマトペに、どこか感情を放棄したような、あるいは突き放すようなドライさが見え隠れする。それ自体を〈遠い感〉として、意図的に世界を遠ざけるこの一首が、本歌集の表題作になっている。

バタフライどういう動きだったっけ木陰できみが泳ぎはじめる

ぐんちゃんと呼んでください 手を後ろに組んでささくれちらちら剥いた

ピースって何年ぶりにやったっけ中指がもう見ていられない

 これらの歌は歌集の前半に収められているが、どの歌にも話し言葉の侵食と、それらを引き受けて散文へ引き戻すような語り手的視点が見られる。感情はおそらく、「記述されるべきもの」として場面の外側にあり、読者に生のまま手渡されることが巧妙に避けられている。それと同時に、これらの歌には二十代前半の作者にしてはやや稚ない世界観、素朴すぎる場面が描かれているようにも思う。実は、こうした印象は歌集後半になっても続く。

あと100円出して大きな傘買えばよかった 煉瓦の文学館

自分の言葉を選んでいると破滅する コロコロコミックいつ買い出した

 一首目、何でもない小さな後悔は、同じようなそれを重ねて生きてきた自分への後悔にも繋がるだろう。〈文学館〉という場面と、傘に100円を出し惜しむ未熟さが交錯する。二首目では〈自分の言葉〉と〈コロコロコミックの奇妙な結びつきに屈託を感じる。作者はどこかで〈コロコロコミック〉の稚なさを引き受けつつ、それを手放したいとも思う、矛盾した〈言葉〉を抱えているのだろう。

 遠い感情と世界。話し言葉に身を預けながら、時折律儀に定型を守るかのように挿入される語り手の視点。そして、「若さ」というより「稚なさ」が目立つように素朴に構成された場面。『遠い感』における何かが絶秒に「遠い」感覚は、ほとんどこのように説明はできると思う。そしてそれは、作者によってそのように了解させられた、言い換えれば、すべて作者の戦略によって生み出さされている、戦略的〈遠い感〉なのではないだろうか。

ウクライナの力になりたいんです。僕はサバイバルゲームの経験があります。

 おそらく長く引用されることになるこの歌に、郡司的その〈遠さ〉の戦略は集約されている。素朴で稚ないというよりも、もはや幼稚な把握によって現実から遠ざかる。しかし、だとしたらなぜこの若者の声をリアルに、そしてずっと〈近くに〉感じてしまうのだろうか、そんなことを考えている。(かりん1月号)