記憶が薄れる前に(あるいは批評会の感想)

歌集『遠い感』批評会、2024年8月11日(山の日)開催。パネリストは大松達知、石川美南、石井僚一、遠藤由季の四名。「かりん」の諸先輩方の助言を大いに参考し、発表を依頼する。会場は80席、満員。会場狭し。

 

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歌集の批評会は何のためにやるのかという問いに、田中拓也さんが「さらに読みを深めるため、読者のため」と仰っていて、私も割と素朴にそうだなと思った。なぜなら、これまで先行する歌集批評会に私が参加してきた理由は、さらにその歌集について、短歌について考えるためだったから。ただ、批評会が少なからず歌集の作者を応援する場であり、共同体的に承認する場でもある側面は強い(人によっては短歌との結婚式とも言う)。良い歌集だったね、とやんわり終わってしまう批評会は、私は歌集の葬式だと思っている。強度のない歌集ほど、対面で直接的な批判が投げかけられることは少ない。それなりの数、そういう批評会を見てきた。参加者は『遠い感』の批評会をどう思ったんだろうか。

 

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私が私であることを、ずっと不思議に思い続けている。『遠い感』にちりばめられた自己言及的な歌〈ぐんちゃん〉〈かずとくん〉と、表紙に印字された〈郡司和斗〉の作者名。社交の場に出てくる、身長180cm、体重62kg、短髪の二十代中盤の男性。これらがすべて、本当の作者を覆い隠す手の込みすぎたフェイクだったら良いなとたまに思う(こう書くと、すべて本当みたいになる)。半端な邪推が入る前に、イメージ=像としての〈私〉をさっさと提示して終わらせてしまいたくなる。

 

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誰が批評会や歌集に興味をもっていて、誰が興味を持っていないのか、この辺の層は用事があるとかではなく、明確に参加しない選択をしたんだなとか、ちゃんと突きつけられる感じが、すごいゾクゾクしました。

 

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大松さんがとにかく私が短歌結社なる組織に所属していることの効能を強調して語っていて、そこからにじみ出る私性観、短歌観の保守さにとても安心した。あの瞬間の語りは、もはやオーパーツとして短歌界隈から失われたと思っていたので。まだまだそんなことはないらしい。

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学生短歌会的なノリの、強烈な身内びいきや相互参照、神秘化、継承戦略を、私自身もそこに半分染まったからこそなんだけど、この露骨なつながりはむしろ結社に入るまえにイメージしていた結社像に近い感じがした。一方で、これは歌集を出したり批評会をやったりして体感したことだけど、結社の中では逆に露骨なソーシャルキャピタルを発揮しまいと抑制的なふるまいをする人が多い印象がある。もちろん、何かイベントがあればみんなで手伝うし、互いの作品を誌面で読み合っているし、強烈に身内びいきっぽいムーヴをする人もいるけど。(あくまで私から見えている範囲の話です)

 

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批評会の参加者が二、三十代ばかりで、それを察してか批評会や懇親会の参加を急遽やめる中堅以上の方々が思いのほか多くなったのが印象深かった。

 

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参加者と話すたびに内山晶太さんの会場発言がすごかったと聞くなど。

 

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歌集中に明確な引用・パロディは当然存在しているが、あまりにそれを真空ジェシカ的(by川谷ふじの)に自然とやると、読者が歌集で無限に元ネタ探しをはじめてしまうことについて、私もずっと考えている。偶然似ただけ、ただの類想歌もいくつかあり、それを避けられなかったのは勉強不足(勉強不足?)かもしれない。でも、そこが「言葉」の核なのだと思う。構文レベルでも、単語レベルでも、今に伝わっていること自体が、そのまま過去の言葉とつながることを意味する。その避けられなさがポイントだろう。見出そうと思えば、あらゆる言葉からその単語や構文が最も象徴する表象を、読み取ることができる。こうしたメタメタメタメタと連なる過去や未来への連鎖は、言語活動の法則をフリーズさせるのか、無限増殖するだけなのか、私、気になります。もちろん、これは現実的な権利関係とは別次元の位相の議論である。(一応書いておくと、このメモ群は批評会のあとにすぐ書かれたもので、マックとかの例の議論は念頭に置かれていません。でもつながるところはあると思います。)

 

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日本という国が、翻訳的というより引用的な近代国家(天皇中心)として形成されたことを、どう考えるか。寺山修司がチエホフ祭からデビューして売れていったのはその意味で示唆的だなと思う。最近、感じるのが、天皇制に言及するだけなら超イージーだが、天皇制を語るのは難しいということ。その区別がないままの創作物はしんどい。天皇制と引用の国、日本。根本的な差別とふわふわした文化を、やっぱちゃんと、どうしたいか考えたい。

 

 

いまさらだけど某賞で『遠い感』はサブカルとかSNSの流行にもたれすぎと選評をうけて次席だったわけだけど、これがセクシャリティとか差別とかが主題であれば大炎上するわけですよね(別に流行だから書いているわけではない!と)。身体性とか歴史性とかをいかに背負っているかがポイントなんだろうけど、ラディカルに考えて、〇〇の流行にもたれているは批評として成立しなくないか(あらゆる主題が重要性を発見される前はそういうスタート位置にあるじゃん)。ふつうにこねくりまわさずポエジーわからんとか言ってほしい。

 

 

批評会の挨拶で私は、「歌集は作者3、読者7の割合くらいでできるもの」と言い、後日後輩から「塚本邦雄は作者8、読者2の割合で捉えているとよく言っていたらしいです」と教えてもらった(短歌研究文庫の帯に書いてあるらしい)。私は脳がTwitterに毒されすぎているので、言葉が勝手に操作されてしまう感覚が内面化しすぎているのかもしれないと反省した。作者の領分が多いと考える方が、むしろ読者を信頼していると言える気がする。

 

郡司和斗『遠い感』書評 遠い世界、遠い感情 貝澤駿一

感情がなんだか遠いな、と、郡司和斗の歌を読んでいると時々思う。感情を吐露することは歌を作る動機のもっとも大きなひとつになりうるものだが、郡司はあまりそれに執着しない。若く、瑞々しい感性を持っている(と言われがちな年代だ)のに、少し珍しいな、と感じてしまう。

少しまってやっぱさっきに打ちあがった花火が最後じゃんかと笑う

遠い感 食後にあけたお手拭きをきらきらきらきら指に巻いてる

 近刊の若手歌集では、口語、もとい実際に口から発せられていることばが容易に定型と一体化し、あるいは侵食して一首を形作ることが多い。本歌集もその例には漏れない。一首目は発話が自然に定型と溶け合いながら、結句の〈笑う〉で視点がやや遠ざかり、散文的になる印象がある。花火大会の終わりという、青春の一場面にいる主体がふっと浮遊して、むしろ小説の語り手やドラマのナレーションのように振舞い始めている。二首目はやや孤独感のある場面だ。「そういうこと、あるよね」という共感を誘うシーンでもある。〈きらきらきらきら〉という単純なオノマトペに、どこか感情を放棄したような、あるいは突き放すようなドライさが見え隠れする。それ自体を〈遠い感〉として、意図的に世界を遠ざけるこの一首が、本歌集の表題作になっている。

バタフライどういう動きだったっけ木陰できみが泳ぎはじめる

ぐんちゃんと呼んでください 手を後ろに組んでささくれちらちら剥いた

ピースって何年ぶりにやったっけ中指がもう見ていられない

 これらの歌は歌集の前半に収められているが、どの歌にも話し言葉の侵食と、それらを引き受けて散文へ引き戻すような語り手的視点が見られる。感情はおそらく、「記述されるべきもの」として場面の外側にあり、読者に生のまま手渡されることが巧妙に避けられている。それと同時に、これらの歌には二十代前半の作者にしてはやや稚ない世界観、素朴すぎる場面が描かれているようにも思う。実は、こうした印象は歌集後半になっても続く。

あと100円出して大きな傘買えばよかった 煉瓦の文学館

自分の言葉を選んでいると破滅する コロコロコミックいつ買い出した

 一首目、何でもない小さな後悔は、同じようなそれを重ねて生きてきた自分への後悔にも繋がるだろう。〈文学館〉という場面と、傘に100円を出し惜しむ未熟さが交錯する。二首目では〈自分の言葉〉と〈コロコロコミックの奇妙な結びつきに屈託を感じる。作者はどこかで〈コロコロコミック〉の稚なさを引き受けつつ、それを手放したいとも思う、矛盾した〈言葉〉を抱えているのだろう。

 遠い感情と世界。話し言葉に身を預けながら、時折律儀に定型を守るかのように挿入される語り手の視点。そして、「若さ」というより「稚なさ」が目立つように素朴に構成された場面。『遠い感』における何かが絶秒に「遠い」感覚は、ほとんどこのように説明はできると思う。そしてそれは、作者によってそのように了解させられた、言い換えれば、すべて作者の戦略によって生み出さされている、戦略的〈遠い感〉なのではないだろうか。

ウクライナの力になりたいんです。僕はサバイバルゲームの経験があります。

 おそらく長く引用されることになるこの歌に、郡司的その〈遠さ〉の戦略は集約されている。素朴で稚ないというよりも、もはや幼稚な把握によって現実から遠ざかる。しかし、だとしたらなぜこの若者の声をリアルに、そしてずっと〈近くに〉感じてしまうのだろうか、そんなことを考えている。(かりん1月号)

郡司和斗『遠い感』書評「一人だけ」を見つける能力  川島結佳子

 

  一人だけの民族みたいはなびらをひたいにつけて踊るあなたは

 挙げた歌は本歌集『遠い感』の巻頭歌である。私は花見の席で踊っていた「あなた」の額に、降ってきた桜の花弁が貼りついたのを想像する。そう考えると楽しそうな場面であるが、「ひとりだけの民族」はやがて滅びてしまう存在でもある。この比喩によって、「あなた」の孤独、そしてこの時間が刹那的なものであることが暗示されている。

ここで郡司和斗について述べておく。丁寧で落ち着いた話し方で親しみやすく、物事を切り取る視線は鋭い。この優しさと眼差しを持って、郡司は「一人だけ」を見つめる。

アモス もし僕が子どもじゃなかったら君を仲間にできただろうか

二席分使って眠ってる人に死ねと思って生きてと思う

きみが踊るルカルカ★ナイトフィーバーをなんどもなんども観てる真夜中 

一首目の「アモス」は、『ドラゴンクエストⅥ』に登場するキャラクターだ。「アモス」は、夜になると魔物に変身し、町中を徘徊する(本人はそのことに気づいていない)。アモスに真実を告げずにアイテムを渡すと、彼は自分自身を制御できるようになり仲間にできるが、真実を告げると町を去ってしまう。真実を告げることが必ずしも正しいことではないのは、現実社会でも同じだ。恐らく主体には、真実を告げてしまったばかりに疎遠になってしまった人がいるのだろう。その時の後悔が特殊性を持った「アモス」を通すことで、より強く伝わってくる。二首目、電車内で二席分使って寝ている人は目立つし、自分の状況によっては苛立ってしまう。主体も一回は「死ね」と思うが、次の瞬間に二席分使って寝てしまう理由や人生を想像し「生きて」と思い直す。ただ糾弾するだけではないのが郡司の歌の魅力である。三首目の「きみ」は身近な人ではなく、ニコニコ動画の投稿者だろう。ユーチューバーよりもさらに一般人であり、ダンスも決して上手なわけではない人が多い。それでもダンス動画を投稿するのは、誰かに見てもらいたいからだと思うが、主体は動画を何度も繰り返し観ることによって、動画投稿者の欲求を受け止めている。投稿者と主体という、普段の生活では絶対に交わることはない二人が、ダンスの動画によって繋がってゆく。それは一種の異界であり、かけがえのない時間であるのだ。

このように歌について述べるときに、説明が多くなってしまうのは、本歌集の特徴の一つである。そのくらい『遠い感』の歌には、理解の前提を必要とするものが多い。

みっくみくにされてしまった人たちが(みっくみく?)蟹を黙って食べる

はじけりゃYea 牡蠣好きで牡蠣アレルギー 素直にGood 明け方に眠った

一首目、栞で穂村弘が特徴的なオノマトペの歌として引いているが、「みっくみく」は初音ミクの楽曲から来ている言葉だ。初音ミクツインテールが蟹を想起させ、その蟹を黙って食べる姿にはグロテスクな面白さがある。二首目の「はじけりゃYea 素直にGood」は嵐の曲にあるフレーズだが、余りにも特徴的過ぎて本来の意味とはかけ離れたところで使われることが多くある。そのことが、牡蠣好きなのに牡蠣アレルギーや、明け方に眠るといった残念な感じと呼応している。

引用歌はたまたま私が知っていただけのことであり、私が元を知らない歌、知っていると思い込んでいるだけの歌も当然ある。読者を選ぶと言われればその通りだが、それが本歌集のマイナスだとは思わない。これらの引用は、自分と同じ道を通ってきた孤独な誰かに、あなたは一人ではないと伝えるためにあるからだ。郡司には孤独な人を見つける能力がある。それは郡司自身が孤独を知っているからだ。私は本歌集が多くの孤独な人々に届くと確信している。(かりん1月号)

郡司和斗『遠い感』取扱店舗一覧10/10時点

郡司和斗『遠い感』(短歌研究社)取扱店舗一覧10/10時点

 

棚にない場合は他の人が買った可能性が高いです。

在庫が倉庫にあるかもしれないので、店員さんに声をかけるのがいいかもです。

また、店舗での注文も他店よりスムーズかと思われます。

 

【北海道】

がたんごとん

MARUZENジュンク堂札幌店

江別蔦屋書店

ジュンク旭川

 

【岩手】

蔦屋書店盛岡店

 

【宮城】

くまざわ書店エスパル仙台店

丸善・仙台アエル

 

【新潟】

知遊堂亀貝店

知遊堂上越国府

ジュンク書店新潟店

 

【群馬】

未来屋書店高崎店

 

【茨城】

川又書店エクセル店

ブックエースTSUTAYAイオンタウン水戸南店様 

川又書店県庁店様 

 

【埼玉】

紀伊國屋書店さいたま新都心

未来屋書店イオンモール春日部店

 

【千葉】

喜久屋書店松戸店

丸善津田沼

TSUTAYAイオンモール幕張新都心

くまざわ書店ペリエ千葉本店

 

【東京】

紀伊國屋書店新宿本店

紀伊國屋書店小田急町田店

丸善日本橋

丸善丸の内本店

丸善お茶の水

ジュンク堂書店吉祥寺店

ジュンク堂書店池袋本店

有隣堂 誠品生活日本橋

くまざわ書店武蔵小金井北口店

オリオン書房ノルテ店

今野書店

 

【神奈川】

丸善ラゾーナ川崎

紀伊國屋書店横浜店

 

【名古屋】

丸善名古屋本店

ジュンク堂書店名古屋店

 

【京都】

丸善京都本店

 

【大阪】

紀伊國屋書店梅田本

葉ね文庫

丸善ジュンク堂書店梅田店

ジュンク堂書店天満橋

FOLK old book store

 

【兵庫】

ジュンク堂書店三宮駅前店

ジュンク堂書店三宮店

ジュンク堂書店姫路店

 

【岡山】

喜久屋書店倉敷店

 

【広島】

MARUZEN広島店

 

【福岡】

ジュンク堂書店福岡店 

丸善博多店

本のあるところ ajiro

 

【熊本】

長崎書店

長崎次郎書店

 

【沖縄】

くじらブックス

 

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詩歌は他のジャンルの本より圧倒的に見つけにくいと思います。

なんとかリストが助けになればいいのですが。

すべての店舗に手書き色紙を書いたので、もし置いてもらえていたら、写真を撮って僕に送ってもらえると、うれしいです。

よろしくお願いいたします。

 

第一歌集について

第一歌集が完成しました。

 

郡司和斗『遠い感』

 

定価:2200円(本体2000円+税)
出版社:短歌研究社
栞文:穂村弘・川野里子・瀬口真司

装丁:加藤愛子

題字:木内陽

装画:KOURYOU

 

短歌研究社

遠い感 郡司和斗歌集 - 短歌研究社

▼アマゾン
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0CJC5H15X

詩「調子」

詩「調子」郡司和斗

 

チコリータは、これを侵してはならない。寿限無寿限無のカラミティ。ドラック・アンド・ドロップでカニカマ送れはすべて詐欺。アップロードのプラカード。たくさんの人に支えられ、今がある。私たちは、タナカです。主体的・対話的で深い学びを巡ってスタンプを集めよう。このような掏摸と鎌倉を伝え続けるためにマイバスケットを教採遺構として残しました。観たことないけど観たことになっている映画。ドナーカードにはかたい苔移植にチェックがついている。それでも性欲を肯定してあげたい。通話しながら無音で映画を観る。燃えるちいかわ。豆腐ケア。毎日だれかしらがパルプ・フィクションについてツイート(エックスズ)していること。それは中野に住んでいるからで、性病だったら少しの鴉で足りていた。チューインガムの百面体。妊娠した猫がべたつく夜を歩いている。情操ビールを飲みながら、私たちは猫の理論を見た。飲む食う打つ。ビニール傘の経験が傾いたファットマンの断面図を過ぎていくまで、たこ焼きは春から夏にかけて透視される。そのにがみさえ、ハルヒさえ、絨毯に包まりながら、無限浪人期間の支えと泳ぎになる。