切断と溶接―〈切れ〉というギャンブル(歌誌「かりん」)郡司和斗 執筆は2025年11月頃。字数の関係で書けなかったことを少し加筆しています。
〈切れ〉というと短歌よりも俳句の方が馴染みのある言葉/概念/現象/技法かもしれない。実際、俳句には「切れ字」なるものがあり、「や/かな/けり」を用いればそこで句の意味や時空間が切断されることが共同体の中ではほぼ所与のものとして了解されている。少しややこしいのが、切れ字(たとえば特に「や」などは句中の切れとしてもっとも頻繁に使用される)を用いなくとも切れは発生しうるということだ。
朧夜や葱間の葱を肉が圧し/若林哲哉『漱口』
文机に埃明るしふぃろそふぃ/中矢温「朝日新聞:あるきだす言葉たち」
一句目の若林の作品は、「や」で切ったもの。上五で切れて中七下五に一塊のフレーズがくっついている形を取っている。月がぼんやりかすんで見える春の夜に、焼き鳥のネギマの肉が葱をぎゅうぎゅうと圧迫している、そういう内容だろう。外飲みの雰囲気が良い。朧夜と葱間には直接的な関係はないが、「や」で切ることでいわゆる「取り合わせ」と言われる、意味上の接続ではなく質感や手触りの親和性や意外性を重視した言語操作を行っている。そしてその技巧の出来不出来は、これまでの俳句表現史の蓄積を踏まえて、読者の読みにある程度ゆだねられる(もちろん作者の手の内でかなり定式化している部分は多い)。二句目の中矢の作品は、「明るし」で終止形で切れて下五にもう一展開がある。この句では取り合わせというほど飛躍はないが、「哲学書」ではなく「ふぃろそふぃ」と言い得たことに、切れを用いた価値、効果があると思う。眼前の景を離れて、下五は比較的自由な物言いが可能になっているからだ。今回は季語についてはあまり触れないが、俳句という文芸は全体としてそうした言葉の肌感や重量感、つまり〈意味〉とは別に物的に運用される言語の在り方について多くの蓄積があるジャンルだと私は考えている。そしてそこに場合によっては〈盛る〉や〈加工〉のコマンドが入る。
さて、では現代短歌における〈切れ〉はどのような形で表現されているのか、少し確認したい。偏りはあるものの私が八年前に現代短歌を読みはじめてから今日に至るまで、若林の句のように切れ字で切れを表している短歌がリアルタイムで発表されているところは、ほとんど目にしたことがない。結社誌などをめくれば膨大な歌が並んであるため、いくつか見つけることはできるが、圧倒的に少数派である。しかも見つかるといっても「たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり/斎藤茂吉『赤光』」のような歌い方はしていない人がほとんどで、文語で書いていても「たり」や「をり」で止める処理するケースが多い。つまり大多数の短歌は、終止形や名詞止め、一字空けによって切れを発生させている。また文語脈による切れ字を用いた切れは、現在の中年世代以降のほぼすべての若手の短歌が口語的書き言葉で表現されていることもあり、最も実作がおもしろい世代で活用されることがとても少ない。
ここで一つ不思議なのが、切れを示す言語的記号の選択肢が減ってもなお、言い換えれば短歌が口語化してもなお、〈切れ〉そのものが失われずに、技法としてどんどん発達していく理由である。上の句・下の句という区分は歴史的に残ったままになるのはある程度自明だとして、初句切れ、二句切れ、三句切れ、四句切れ、あるいは句割れによる切れなどは、衰えることを知らず、複雑化する一方である。
いるか雲 クレーンゲームの景品同士みたいに今だけはぜったいに味方だから
/初谷むい『笑っちゃうほど遠くって、光っちゃうほど近かった』
木蓮のふとっていく芽ぐつぐつと心仕込みの呪いをかける
/丸田洋渡『これからの友情』
銀杏の葉踏みしめられて白い道あたまのなかみたいで抱きたいな
/椛沢知世『あおむけの踊り場であおむけ』
物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋
/五島諭『緑の祠』
万物の起源のように明るかったオリジン弁当 無くなっていた
/鈴木ちはね『予言』
一字空けばかりの例歌で恐縮だが、一首目が初句切れ、二首目が二句切れ、三首目が三句切れ、四首目が四句目の句割れによる切れ、五首目が四句切れの短歌を引用した。それぞれの歌で試みられていることはバラバラで、言葉の象徴性を高めたり、奇想を提示したり、問いと答えの合わせ鏡的な発想を展開したり(永田和宏『表現の吃水―定型短歌論』)、あえて肩透かし的に一字空けする必要のなさそうな言葉をそのまま配置したり、様々だ。しかしいずれにしても言葉の取り合わせ的な発想の濃淡、グラデーションによって一首一首のおもしろさが成立しており、その核となるのが〈切れ〉―一首の中にどのような断絶を作り出すか―という構造によって生み出されていると言っていいだろう。
これらの歌は、作者の中では必然によって言葉が結びついて一首を成しているのかもしれないが、読者としては究極的には言葉と言葉の偶然の出会いによって形作られているように見える(だが全てがシュルレアリスム的というわけではない)。そしてその偶然へとポエジーを投げ出す姿勢は、短歌へのギャンブル的なコミットメントに私には思われる。このドキドキに、ひりつきに、散文的なリズムからの切断に、作品の魅力のある側面は宿っていると考えられる。
いま私がギャンブル的と述べるとき、それは適当さや無責任さ、宝くじ的な完全な無操作性などを意味したいわけではない。私が言いたいのは競馬・競輪・ボートレース的な、あるいはポーカー的な、あるいは福本伸行『賭博黙示録カイジ』的な、極限まで実力を研ぎ澄ませた後に訪れる、しかし最後は運に賭けて未知な領域を切り開くしかない覚悟の世界の話である。別に私自身がギャンブルに精通しているわけではないが、競馬であれば馬の状態や血統、騎手が誰か、馬場のコンディションや天候はどうかなどを総合的に判断し、誰しもが馬券を買うだろう。自分の分析では絶対にこの馬が来ると信じる。だがそうそう予想通りのレース展開はやってこないし、たとえ競馬で生計を立てている人であっても、負けるときは負ける。最後はどうしても運の要素が絡む。そこに必然性がないからこそ、逆説的にレースが輝く。現実が剥がれ落ちて、運命のようなものが見える。一首の中の切れもその感覚に近い。一首のどこかで切断が起きて、次の言葉が一瞬予想不可能になる。次の言葉の予測可能性に確率の高低はあれど、一度抽選に入る。現実世界では政治においても経済においても確実性が求められる。だからこそ創作上でこの抽選をあえて求めたところに、競馬のレースが輝くときと同等の逆説的な魅力(緊張感)が表れる。
『焚火』第三号の座談会にて橋本牧人が短歌(誌面では『遠い感』が材料)における取り合わせ的な方法を「地獄の技術」と呼んでいたが、その通りだと思う。秩序と混沌のあわいにある、行先不明の地獄だ。地獄でしか作れない短歌はある。
冒頭の問いに戻ろう。切れ、つまり定型内における切断と溶接の技術が現代短歌で複雑に活発に開発されている理由は、それが他者(外部)に出会う最短距離の方法だからだと私は思っている。ただ、他者といっても自己の内の他者(外部)だが。どういうことか。
切れによって言葉と言葉の偶然の出会いを読者が感じとるとき、それはギャンブル的なコミットメントに近いという考えを先ほど述べた。リスクを負って何かを賭ける場合、人は勝っても負けても心がざわつき、今まで気づかなかった精神の〈襞〉を発見するものである。実生活であれば、比喩ではなく人生そのものが変わってしまう状況もありえる(勝てば借金が返せる、負ければ全財産を失うなど)。同様に一首を考えると、一首はその一首を以て身を投じ、〈切れ〉=〈切断と溶接〉による偶然性を差し出すことで、作品の自閉性を内側から打ち破る夢を読者にみせている。未知の自分に出会っているという感覚を、一首の中に埋め込んでいる。そして未知の自分・自己とは、最も身近な他者(外部)なのだ。それは出会った瞬間に他者(外部)ではなくなってしまうかもしれないが、だからこそ夢であり、ギャンブル的ともいえる。また一首においてもその〈襞〉の質感が新しく変わることは、歌われる意味内容を陳腐さから脱出させ、その内容自体をいまいちど素朴な形で輝かせる、迫真なものにさせるだろう。
歌い手自身が未知の自分という他者に自覚的に出会っているのかはわからない。だが少なくとも読者はこのような作品群の裂け目からひりひりした感覚を浴びることはできる。















