切断と溶接―〈切れ〉というギャンブル

 切断と溶接―〈切れ〉というギャンブル(歌誌「かりん」)郡司和斗 執筆は2025年11月頃。字数の関係で書けなかったことを少し加筆しています。

 

 〈切れ〉というと短歌よりも俳句の方が馴染みのある言葉/概念/現象/技法かもしれない。実際、俳句には「切れ字」なるものがあり、「や/かな/けり」を用いればそこで句の意味や時空間が切断されることが共同体の中ではほぼ所与のものとして了解されている。少しややこしいのが、切れ字(たとえば特に「や」などは句中の切れとしてもっとも頻繁に使用される)を用いなくとも切れは発生しうるということだ。

  朧夜や葱間の葱を肉が圧し/若林哲哉『漱口』

  文机に埃明るしふぃろそふぃ/中矢温「朝日新聞:あるきだす言葉たち」

 一句目の若林の作品は、「や」で切ったもの。上五で切れて中七下五に一塊のフレーズがくっついている形を取っている。月がぼんやりかすんで見える春の夜に、焼き鳥のネギマの肉が葱をぎゅうぎゅうと圧迫している、そういう内容だろう。外飲みの雰囲気が良い。朧夜と葱間には直接的な関係はないが、「や」で切ることでいわゆる「取り合わせ」と言われる、意味上の接続ではなく質感や手触りの親和性や意外性を重視した言語操作を行っている。そしてその技巧の出来不出来は、これまでの俳句表現史の蓄積を踏まえて、読者の読みにある程度ゆだねられる(もちろん作者の手の内でかなり定式化している部分は多い)。二句目の中矢の作品は、「明るし」で終止形で切れて下五にもう一展開がある。この句では取り合わせというほど飛躍はないが、「哲学書」ではなく「ふぃろそふぃ」と言い得たことに、切れを用いた価値、効果があると思う。眼前の景を離れて、下五は比較的自由な物言いが可能になっているからだ。今回は季語についてはあまり触れないが、俳句という文芸は全体としてそうした言葉の肌感や重量感、つまり〈意味〉とは別に物的に運用される言語の在り方について多くの蓄積があるジャンルだと私は考えている。そしてそこに場合によっては〈盛る〉や〈加工〉のコマンドが入る。

 さて、では現代短歌における〈切れ〉はどのような形で表現されているのか、少し確認したい。偏りはあるものの私が八年前に現代短歌を読みはじめてから今日に至るまで、若林の句のように切れ字で切れを表している短歌がリアルタイムで発表されているところは、ほとんど目にしたことがない。結社誌などをめくれば膨大な歌が並んであるため、いくつか見つけることはできるが、圧倒的に少数派である。しかも見つかるといっても「たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり/斎藤茂吉『赤光』」のような歌い方はしていない人がほとんどで、文語で書いていても「たり」や「をり」で止める処理するケースが多い。つまり大多数の短歌は、終止形や名詞止め、一字空けによって切れを発生させている。また文語脈による切れ字を用いた切れは、現在の中年世代以降のほぼすべての若手の短歌が口語的書き言葉で表現されていることもあり、最も実作がおもしろい世代で活用されることがとても少ない。

 ここで一つ不思議なのが、切れを示す言語的記号の選択肢が減ってもなお、言い換えれば短歌が口語化してもなお、〈切れ〉そのものが失われずに、技法としてどんどん発達していく理由である。上の句・下の句という区分は歴史的に残ったままになるのはある程度自明だとして、初句切れ、二句切れ、三句切れ、四句切れ、あるいは句割れによる切れなどは、衰えることを知らず、複雑化する一方である。

  いるか雲 クレーンゲームの景品同士みたいに今だけはぜったいに味方だから 

  /初谷むい『笑っちゃうほど遠くって、光っちゃうほど近かった』

  木蓮のふとっていく芽ぐつぐつと心仕込みの呪いをかける

  /丸田洋渡『これからの友情』

  銀杏の葉踏みしめられて白い道あたまのなかみたいで抱きたいな 

  /椛沢知世『あおむけの踊り場であおむけ』

  物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋     

  /五島諭『緑の祠』

  万物の起源のように明るかったオリジン弁当 無くなっていた          

  /鈴木ちはね『予言』

 一字空けばかりの例歌で恐縮だが、一首目が初句切れ、二首目が二句切れ、三首目が三句切れ、四首目が四句目の句割れによる切れ、五首目が四句切れの短歌を引用した。それぞれの歌で試みられていることはバラバラで、言葉の象徴性を高めたり、奇想を提示したり、問いと答えの合わせ鏡的な発想を展開したり(永田和宏『表現の吃水―定型短歌論』)、あえて肩透かし的に一字空けする必要のなさそうな言葉をそのまま配置したり、様々だ。しかしいずれにしても言葉の取り合わせ的な発想の濃淡、グラデーションによって一首一首のおもしろさが成立しており、その核となるのが〈切れ〉―一首の中にどのような断絶を作り出すか―という構造によって生み出されていると言っていいだろう。

 これらの歌は、作者の中では必然によって言葉が結びついて一首を成しているのかもしれないが、読者としては究極的には言葉と言葉の偶然の出会いによって形作られているように見える(だが全てがシュルレアリスム的というわけではない)。そしてその偶然へとポエジーを投げ出す姿勢は、短歌へのギャンブル的なコミットメントに私には思われる。このドキドキに、ひりつきに、散文的なリズムからの切断に、作品の魅力のある側面は宿っていると考えられる。

 いま私がギャンブル的と述べるとき、それは適当さや無責任さ、宝くじ的な完全な無操作性などを意味したいわけではない。私が言いたいのは競馬・競輪・ボートレース的な、あるいはポーカー的な、あるいは福本伸行『賭博黙示録カイジ』的な、極限まで実力を研ぎ澄ませた後に訪れる、しかし最後は運に賭けて未知な領域を切り開くしかない覚悟の世界の話である。別に私自身がギャンブルに精通しているわけではないが、競馬であれば馬の状態や血統、騎手が誰か、馬場のコンディションや天候はどうかなどを総合的に判断し、誰しもが馬券を買うだろう。自分の分析では絶対にこの馬が来ると信じる。だがそうそう予想通りのレース展開はやってこないし、たとえ競馬で生計を立てている人であっても、負けるときは負ける。最後はどうしても運の要素が絡む。そこに必然性がないからこそ、逆説的にレースが輝く。現実が剥がれ落ちて、運命のようなものが見える。一首の中の切れもその感覚に近い。一首のどこかで切断が起きて、次の言葉が一瞬予想不可能になる。次の言葉の予測可能性に確率の高低はあれど、一度抽選に入る。現実世界では政治においても経済においても確実性が求められる。だからこそ創作上でこの抽選をあえて求めたところに、競馬のレースが輝くときと同等の逆説的な魅力(緊張感)が表れる。

 『焚火』第三号の座談会にて橋本牧人が短歌(誌面では『遠い感』が材料)における取り合わせ的な方法を「地獄の技術」と呼んでいたが、その通りだと思う。秩序と混沌のあわいにある、行先不明の地獄だ。地獄でしか作れない短歌はある。

 冒頭の問いに戻ろう。切れ、つまり定型内における切断と溶接の技術が現代短歌で複雑に活発に開発されている理由は、それが他者(外部)に出会う最短距離の方法だからだと私は思っている。ただ、他者といっても自己の内の他者(外部)だが。どういうことか。

 切れによって言葉と言葉の偶然の出会いを読者が感じとるとき、それはギャンブル的なコミットメントに近いという考えを先ほど述べた。リスクを負って何かを賭ける場合、人は勝っても負けても心がざわつき、今まで気づかなかった精神の〈襞〉を発見するものである。実生活であれば、比喩ではなく人生そのものが変わってしまう状況もありえる(勝てば借金が返せる、負ければ全財産を失うなど)。同様に一首を考えると、一首はその一首を以て身を投じ、〈切れ〉=〈切断と溶接〉による偶然性を差し出すことで、作品の自閉性を内側から打ち破る夢を読者にみせている。未知の自分に出会っているという感覚を、一首の中に埋め込んでいる。そして未知の自分・自己とは、最も身近な他者(外部)なのだ。それは出会った瞬間に他者(外部)ではなくなってしまうかもしれないが、だからこそ夢であり、ギャンブル的ともいえる。また一首においてもその〈襞〉の質感が新しく変わることは、歌われる意味内容を陳腐さから脱出させ、その内容自体をいまいちど素朴な形で輝かせる、迫真なものにさせるだろう。

 歌い手自身が未知の自分という他者に自覚的に出会っているのかはわからない。だが少なくとも読者はこのような作品群の裂け目からひりひりした感覚を浴びることはできる。

「井泉」111号 社会とつながらないことが許されていない

「井泉」リレー批評より転載。お題は「短歌と社会の接点」。一部加筆修正あり。掲載は2026年1月。執筆は11月頃。

 

社会とつながらないことが許されていない 郡司和斗

 

 

 どのような短歌から社会との接点を強く感じるのかという問いに答えるのならば、解答はシンプルだ。あらゆる短歌から社会性や政治性を強く感じ〝とる〟ことができる。なぜなら私は、人文学からそのように訓練されてしまったからだ。

 ある表現から(ここでは短歌一首を想定)社会的な、あるいは政治的な要素を見出すことは、今かつてないほど容易になっている実感がある。例えばここに、社会詠とはおよそ言いづらい、ごく個人的な生活や思い出をうたっている短歌があったとしても、そこから社会構造や権力関係、私たちが暮らす社会の歴史的蓄積を感じないわけにはいかない。

  高架にて風にかがやく銀色のこれから海を渡る列車は     

  『海を渡る列車』あずま洋子

 風、海、列車、そして情景から受け取れる高揚感。短歌的には歌い尽くされているなんてことない題材の一首だが、世界で唯一海上を渡るという瀬戸大橋線に思いをはせるとき、その橋が架かるまでの人々の仕事や政治的な判断、メディアの反応、主体の生活の変化など、私たちはこうした様々なことを想像可能である。

「the personal is political」という言葉はフェミニズム運動の出自を離れ、もはや物事を見るときのベースになる発想として定着している感があり、あらゆる言論の前提にされているのが現状と言えるだろう。日曜劇場のドラマ『御上先生』にもこのフレーズが出てきたのが記憶に新しい。基本的に私はその言論状況に賛成していて、ふつうに良いことだと思っているが、一方で考えるのは、私たちがあまりにそうした意識付けを訓練されすぎて、作品の表象から社会性や政治性を見出すことにある種の引け目を感じなくなってしまったのではないかという疑問である。ただ、先ほども述べた「訓練」という語だと少し恣意的に言いすぎたかもしれない。ある作品を通して政治性、社会性を見つけ直すことは、考えてみれば驚くほど当たり前のことである。しかしその素朴さが作品を読む上で通用しない、物足りない感覚が最近はずっとある。これは別にフェミニズムを個別で批判したいのではなく、短歌を読むときに理論(枠組み)を優先して読解をしようとする、その根本的な暴力性の再透明化を疑問視している。つまり下品に言うと、薄っすら政治批評、社会批評をしたい思いが先行して存在していて、既に考えていたフレームにハマった表象を拾い上げて代弁させるような感想/鑑賞/批評は、ドヤ顔の割にしょうもないということである。

 これまで短歌は、「○○詠」といった形で社会を捉える切り口にラベルを張って整理してきた。

  〈化学死んだ〉〈数学死んだ〉生きていてくれればいいが死にすぎだろう

  カタカナで書けばヒーローみたいじゃん。介護戦隊ヤングケアラー。 

  『ダニー・ボーイ』貝澤駿一

 一首目はいわゆる職業詠。定期テストで苦戦している生徒たちをやや引いて眺める教師像が浮かぶ。二首目は職業詠と生活詠の中間か。こどもの語り口を借りて自嘲ぎみに若年者の介護を描く。

  戦後史をぼくは知らないカリカリのタコスの皮が歯茎に刺さる

  米軍の車を包み冬空をねじりつつ火は火は直ぐ立てり

  『KOZA』屋良健一郎

 一首目、二首目ともにコザ騒動と呼ばれる事件を詠んだ作品。第二次世界大戦が残した土地への痛みという視点で見れば、広い意味で戦争詠と呼べるかもしれない。ここで挙げた四首は、大きく括るとみな社会詠と呼ばれることが多い。そしてこのような枠組みは、かつてほど明確な役割を果たさなくなってきたように思うし、批評におけるプレゼンスも下がった。既存の枠組みの後退により、それゆえにあらゆる短歌からほんのりと立ち昇る社会性や政治性を見出すことに次の批評の価値、ゲームはシフトしている。 

  とれたての夏みかんかもしれないよ電話がひとつしかない世界

  『カメラは光ることをやめて触った』我妻俊樹

  昼のバレエ教室と思ってくれたらいいから これからの友情は 

  『これからの友情』丸田洋渡

 実際、抽象的な作風の方が思想/政治/社会は表現しやすいし、読み取りやすいとさえ思う。「電話がひとつしかない世界」という閉塞感と解放感の同居には昨今のグローバルな社会を想起するし、バレエ教室に見立たてられた「友情」は、これからのリベラルな人間関係の在り方をどこか思わされる。ただこうした読みが脳裏に過るたび、私は私自身に辟易もする。

 今、社会との接点(つながり)を持たない作品制作というのは、むしろ逆に、非常に珍しいものになっている。というか、不可能かもしれない。これは読者論的に言い直すと、社会とのつながりを意識せずにある作品を鑑賞できるというのは、そのコミュニティの言論空間を俯瞰して見たときに、実はかなり貴重な体験なのだと言えるのではないだろうか、ということでもある。脱政治的な振る舞いを意図する隠蔽的な態度こそが最も醜い政治的態度であることは、自明とまでは思わないが実際その通りだと思う。だが〈避ける〉でもなく〈見出す〉でもない、その一段階手前にある、一首に触れた瞬間の感覚こそ、忘れがちだが最も大切にするべきものなのではないだろうか。

 こうした考えは反動主義的に受けとられると自分でも思う。少し言い方を変えたい。そう、どうすればそうした「平和ボケ」した読みの回路を「あえて」残しておくことができるのだろうか(この批評によって? 普段の作品によって? 政治によって?)。後退や回帰と言われてもなお、作品と社会に潜むイデオロギーを安易に結びつける行為は、やはり根本的には危険なことだと思う。本筋とはズレるが、特に短い詩歌にとっては、それが差別や戦争の肯定に利用される場合もあるし、また逆に、それが弾圧の対象となり実身体へ危害が加わる場合もある。一方で、作品から社会を読み解くことは、驚くほど素直に大切な行為だとも実感として思う。むしろそうした読解が有効に働く社会であってほしい。ただどうしても空虚に映ってしまうのが、2025年年末の個人的な思いである。世界情勢、国内情勢の不安定さが私にそう思わせている部分はたぶんにあるだろう。だとすればどうなのだろうか、問いが一巡してしまうが、「平和ボケ」した読みを豊かにしていくことは、ある意味で「抗い」ではあるが、ある意味では環境の変化に順接な反応とも言える。そして作品から社会を読み解く行為は、空虚なアプローチのようで実際は粘り強い「プロテスタント」だとも言える。結局のところは、人間世界の慌ただしい暴力の波のなかで、どのような「語り」もかき消さないようにいること、かき消されないようにもがくことが、もっとも重要な批評のあり方なのだろうか。どちらにしても新しい倫理や正義を語るふりをして、他者を抑圧することは避けたい。し、自分もそれをされたら抗いたい。

 

hey、2025年の転生した郡司和斗まとめ

2025年になんとかできた活動をまとめています。参考にしていただいて、一緒に仕事してくれる方、どの連絡先でも問題ありませんので、お誘いください。死ぬ気でやります。

 

オールエヴァ展のセル画、すごすぎたなあ。

 

【作品以外の活動篇】

ざっくり時系列順(記憶漏れありませんように…)。

 

①音楽家マシコタツロウさんとの対談 (『學』 vol.69)

マシコタツロウ●1978年茨城県生まれ。一青窈『もらい泣き』『ハナミズキ』のほか、EXILEなどさまざまなアーティストに楽曲を提供。校歌、市歌も手がける。2023年1月に作家活動20周年を記念して初のオリジナルフルアルバム『CITY COUNTRY PRESENT PAST』(よしもとミュージック)をリリース。音楽活動だけでなく、茨城町ふるさと大使、いばらき大使も務める。

 

ハナミズキ』は平成でいちばん歌われた曲らしいです(カラオケなのか、ジャスラックの申請なのかはよくわかってなくてすみません)。当時はどのお店に入っても内線が流れていたとか。今は音楽の教科書にもほぼすべて載っていますし、規模感が違いすぎて、どう反応すればいいかわからないくらい凄いです。会ったらすごい気さくなにいちゃんという感じ。「うた」について短歌と歌唱の双方から少しばかり議論しました。

 

 

②野球チーム「文明レッドライツ」デビュー選で散る

haiku.monster

 

 

俳句チーム×短歌チームによる野球大会です。ここで負けたことで、結束力が高まりました。自分は外野です。最低限プレイできるようになりましたので、草野球のご依頼にもお応え可能です。

www.asahi.com

新聞の記事になっていたようです。

 

 

マシコタツロウさんのライブで短歌創作イベント

マシコさんが開校されているフリースクール主催の音楽ライブです。ライブを聴きにきた参加者に短歌を作っていただき、即興で添削や解説を行いました。プレバトみたいなもんです。

 

 

カクヨム短歌賞の告知

kakuyomu.jp

短歌界、今年一番のパワーコンテンツです。

選考委員のメッセージと応募者の新作十首が読めます。

 

 

⑤アカウント、乗っ取られる

十年使ってきたツイッターアカウントが逝きました。

いまはtrentという名前で活動されているようです。企業の個人情報流出など昨今こわいですね。みなさん気を付けてください。

 

hey、このツイート、私がアカウントを取り戻した合図だとみなさん思ったようです。

ダメでした。

いままでありがとうございました。

 


⑥文明レッドライツ、悲願の初勝利

サトアヤさんの報告。われわれは強くなりすぎてしまったかなしき野球モンスター。

メンバーキャップも作成しました。

 


現代歌人協会賞授賞式でスピーチ

アルカディア市ヶ谷で久永くんに祝辞を述べる。
式にて本業タクシードライバーの年配の歌人さんから謎の絡まれ方をして、あなた誰ですかとなりました。みなさんは年を取ったら40歳年下の初対面の人にダル絡みするの、やらないでくださいね。

 

 

カクヨム短歌賞 選考委員のインタビュー

kakuyomu.jp

冒頭の恋愛トークが人気のようです。

 


⑨牧水・短歌甲子園で少し登壇、短歌にコメント

YouTubeに当日の動画があるらしいです。

伊藤さんにお呼びいただいて、檀上でほんとにちょっとだけ高校生の短歌にコメントしました。

名古屋高校さんがおもしろかったです。

 


短歌甲子園2025(全国高校生短歌大会)審査員

盛岡の方の短歌甲子園では審査員をやりました。

ゆかりさんの喋りはこれまでの人生で会ってきた人の中でもベスト5に入るくらい凄くて毎度感動します。

優勝校もすばらしい。



⑪短歌道場in郡上審査員

↑公式の写真です。

こちらでも審査員をやりました。

穂村さん、荻原さんとはいつ話してもホログラムと喋ってるような気持ちになります。

 

 

⑫Forbes JAPAN 掲載

世界を変える的な企画の補欠みたいなやつに選んでいただきました。

かっこいいっすね。あざす!初谷さん、いぬいさんといっしょ。

 

 

⑬文明レッドライツの応援歌完成、収録に参加

サビだけおぼえて応援してほしいです!

 

 

茨城県高等学校文芸部中央大会審査員

茨城県立歴史館

今年で二年目です。緑岡高校さんがみんな上手いです。短歌甲子園で会った生徒さんもいてうれしい♪

総文祭の全国大会へ選手を送り出す仕事です。

 


⑮文フリ 俳句同人誌「なるほど」参加 店番

文フリは毎回たのしいです♪

 

 

⑯巨大な忘年会の選者(川柳部門)

haiku.monster

おもしろ川柳を選んでいますし、載っています。

 

 

【掲載物編】

川柳句集『ヒント』刊行 200句

同人誌「ヘブンズアンドヘルズ」 40句くらい

 

短歌研究2025.1+2 ユニット合作20首

短歌研究2025.5+6 7首

短歌研究2025.7+8 20首

短歌研究2025.9+10 作品季評

短歌研究2025.11+12 年鑑号巻頭座談会

角川短歌2025.6  7首 

角川短歌2025.11 短歌道場レポート

短歌往来2025.10 5首

朝日新聞2025.8.03 コラム うたをよむ

歌誌かりん 20首くらい、書評2本、批評1本、時評4本

巨大時評:短歌 1本

 

同人誌「巨大な忘年会」 応募作鑑賞座談会

俳句個人誌「なるほど」 企画:詠み人知らず

なるほど購入特典ペーパー 10首、詩2篇

俳誌円錐2025.4 4句

俳誌円錐2025.8 5句

俳誌楽園 10句

俳誌蒼海 20句くらい 

第2回kokera賞(村上鞆彦賞) 15句

r.goope.jp

 

 

 

tankakenkyu.shop-pro.jp

土井礼一郎『義弟全史』書評(かばん.2023.12)

郡司和斗

 

 そもそも自分が歌集をどのように読んでどのように価値づけているかというと、極端に述べれば、良いと思う歌が何首歌集に入っているかで判断しているということになる。もちろん、大学教育で多少の「文学」を勉強してしまっているため、現代の様々な読みの理論は把握させられてしまっているが、しかし、歌集をどう読んでいるかと素直に言えば、良い一首がどれだけ見つかるかに賭けていると、個人的には思う。これは別に特別少数派の読みではないと体感としてはあるが(なんなら多数派だと思っているが)、自分で批評を書くとなると急にストーリーを組み立てがちであることを踏まえて、読みの実体感を冒頭で書いた次第だ。そうした視点を提示した上で、土井礼一郎の第一歌集『義弟全史』には、歌集の後半におもしろい歌がたくさん結晶していると私は思っている。

 

つま先も見えない夜の数を言え 手紙の裏に正の字を引け
建て替えるたびに小さくなる家のいちばん奥に眠る父親
鳥の家・魚の家をおとずれてつめたいお金ばかりをもらう
あいまいな会話は続く金魚死ぬ翌日金魚を買うようにして
離人症雛人形をとりたがう余計なものを持たざる暮らし
なんでそんなにゴルフ規則の改定が太郎を二度寝にむかわせるのか
こんなまぶしい鏡の部屋に閉じこめて読書をさせてそのままの国

 

 歌集中の粘り気のある「語り」が最も特徴的に表れているゾーンが中盤から後半にかけてある。詠みこまれる対象ではなく、詠むときの感覚を前景化させるとき、モノをよく見てはいけない。モノをよく見ずにその存在をうたおうとすることで、異なる事象が重なりつつも同時にあるような、マルチバース的な世界が立ち上がってくる。

 

百円を入れピーマンを取り出せばわざわざここまで来て礼をする

 

 常識の範囲内で考えれば、この歌は、田舎の無人販売所でピーマンを買ったときに、たまたま販売所の近くにいた農家さんが、無人販売をしているのに「買ってくれてありがとうねぇ〜」とわざわざあいさつに来てくれた、というような光景を詠んでいるのだろうと思う。しかし「入れ」「取り出せば」「ここまで来て」「礼をする」等の所作が、この歌集の後半においてはとても異様なことが起きているように感じられる。無人販売所の話などこの歌では実は一切していないのかもしれない。「百円」も「ピーマン」もそう呼ばれているけど、私が知っている「百円」や「ピーマン」ではないのかもしれない。そう思わせられる。モノをよく見てはいけないのは読者も同じだ。

 

しまうまと呼ばれて馬はやってきて赤い体を横たえている

 

 『義弟全史』の秘密を少し開示してくれる一首だと思う。ここでは「馬」は「しまうま」と誰かに呼ばれている。そして「赤い体」をしている。何も噛み合っていない。でもそれが重要だ。『義弟全史』では「しまうま」と呼んで「しまうま」が来ることはない。体はしましま模様ではなく赤い。「語り」の言葉と眼前の物体/現象の結び付きがゆるやかであること。隣り合う別の世界を覗かせる「裂け目」を作り出す想像力が魅力だ。大森静佳の栞文を引けば「奇妙な想像力によって現実を解体」することと近いかもしれない。おそらくこのような批評を確信的に引き受けた作が「僕ら皆どうやら別の街のこと話しているね、同じ顔して」なのだろう。似たような指摘は平井弘栞文においても書かれている。
 歌集の中でいちばん盛り上がっている(と個人的に思っている)粘り気のある語りが出た部分だけがこの歌集の良さかというと、もちろんそう話は単純ではない。

 

別れればすぐに薄れていく顔の真ん中に飛び込み台はあり
ある年は物干し竿にTシャツをひっかけたまま死ぬ人もいた
屋上は岬のごとし昭和から干されたままのずぼんはためく
人の名に似た名の町を行き過ぎるときに花火が打ち上げられる
ほんとうのおじさんになるおじさんの人形焼きのうちのひとつは
そこに住む誰も傷つかないくらいゆっくり崩しましょう、アパート

 

 これらの歌は、この世界を内側から食い破る裂け目を生み出すというより、この世界の再解釈可能性を示すような豊かさを持った作品だ。「顔の真ん中に飛び込み台はあり」「ひっかけたまま死ぬ人もいた」「昭和から干されたままのずぼん」「おじさんになるおじさんの人形焼き」「誰も傷つかないくらいゆっくり崩しましょう、アパート」等々、そう語られるとき世界はそう「ある」のだ。

 

脱がされていることさえも気づかないあの子はたまごどうふの子供

 

 暗喩として十分読めるが、現実の景色を想定せずとも、「あの子」は「たまごどうふの子供」なのだと、そのままのぷるぷるしたイメージを「ある」ものとして受けとることができる。それは、「脱がされていることさえも気づかない」という奇妙な語り出しが一首のムードをコントロールしているからだろう。
 このような歌群が全体にちりばめられていることが、義弟の謎解きよりも意外とこの歌集の核なのかもしれない。

 

特集=野球(短歌往来.2025.10)

日常 郡司和斗

 

再発明された車輪に付け替えて(とてもきらきら)球場へゆく

 

いつも雨で、雨は試合にざわめいて、おやゆび・ひとさしゆび・なかゆび

 

ナゲットのおまけに一枚のトランプ トランプに選手は振りかぶる

 

全員が老いを感じているところ ナイターの光は別料金

 

野球でなんでも喩える人と麻雀でなんでも喩える人がふたたび短歌教室で出会う

 

【小文】
もっぱら少年団・部活はサッカー派で野球なぞ小馬鹿にしていたが、大人になると常時激しいスポーツは取り組むのが難しく、ゆえに野球のレクレーション的な側面に強く感動している。ガチ勢からは嫌厭されるだろうが、私はその〈草〉性で以て野球を好んでいる。

貝澤駿一『ダニー・ボーイ』書評(かりん.2025.8)

貝澤駿一『ダニー・ボーイ』書評 郡司和斗

 降板のエースの肩をポンと叩くその一瞬の平行の影


 最近、短歌の仲間と「文明レッドライツ」というチームを作って草野球をしている。貝澤さんはピッチャーで、僕は外野を守りながらいつも貝澤さんの背中を遠く見ている。素朴なテクスト論を捨てて『ダニー・ボーイ』と貝澤さんを重ねさせてもらうと、試合中マウンドに立つ貝澤さんの頼れる感じ、いや、頼りになりすぎてしまう感じは、歌集の美点と(ささやかな)欠点の両方を象徴しているかのようである。


 まっさらなノート ピリオド そこにいるすべての走りださないメロス 
 大学院を出て何になる キャンパスの夏の密度に責め立てられて
 教職か 大学院か (両方という手もあるか)風の束縛


 短歌では少し避けたくなる饒舌さをあえて文体に取り込んでいるようにみえる。あるいは、よりポジティブに捉えれば、丁寧な語りともいえる。これは私見だが、時代が違っていようとも、青春的な短歌はどこか匿名性を帯びて、近しい文体で歌われることが多い。賞レース等に投稿される短歌などがその例だ。しかし貝澤の青春性の強い短歌は、あまりその傾向に当てはまらない。それは、字空けによる一首の呼吸の間合いや、自己批判的な意識の在り方が、青春期にありながら既に青春期を超えた成熟をみせているからだろう。


 僕はコーリャ 地図から消えたその村をずっと探している男の子
 少年を殺めし少年のことをいう主任の袖にチョークは染みて
 僕はまるで電気。そう言い切ってビリー・エリオット宙を舞いたり
 霧の向こうにあるのは光 あるいは火 少年がとおく煙草をふかす


 圧倒的に連作志向で作られた『ダニー・ボーイ』の表層を攫うと、それぞれの連作に〈少年〉的モチーフが頻出していることに誰もが気づく。それはただの偏愛なのだと簡単に片づけることもできるが、『ダニー・ボーイ』中の文脈をより正確に捉えれば、自分が歌える倫理の範囲について、語り手が非常に慎重ということが考えられるだろう。


 セグリゲイト つまり分断 また嫌な単語をひとつ教えてしまった


 こうした歌からも伺える、自身の暴力性。教育が洗脳と紙一重であることの自覚。語り手が把握している世界を描くうえで、〈少年〉は語り手が通過した地点でもあり、それゆえに世界の想像の再構築を図るにあたって、倫理の錨にもなる。


 〈スヴェト〉は光だ光を捕えろとスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ 光へ
 カタカナで書けばヒーローみたいじゃん。介護戦隊ヤングケアラー。


 社会的な問題など多く取り扱いつつも、どこか根本的な信頼を世界に対して寄せているようなあたたかさが、歌集全体に満ちている。それはときに軽薄さと紙一重になる危険性を孕んでいるけれど、ここでは歌集という一冊の「かたち」を得たことで、そう易々と価値判断を下させない。それぞれの連作において海外文学や国際/国内時事のモチーフは、一人の饒舌な語り手によって統御されつつ展開される。語りの次元において一首ごと連作ごとの詩情は常に引き継がれ、あくまで歌集全体としての抒情の理解を、読み手に迫ってくるのだ。それはつまり、作者が既に自分の文体を見つけているということでもある。貝澤の歌はこれまで、一首や連作単位だと同世代と比べて少し損をしてきたと思う。今回歌集がまとまったことで、貝澤の歌が本来とても骨太であったことを、読み手はあらためて認識し直すだろう。