川柳っぽさとは?

「かりん」2021.11月号 今月のスポット

 

 髙良真実さんに送ってもらって『川柳スパイラル・第12号』を読んだ。『川柳スパイラル』は小池正博さんが発行している川柳雑誌で、同人誌と結社誌の間のような誌面構成になっている。12号以前の目次はまったく知らないのだが、今号に関しては短歌制作者として名前をよく見る方々がちらほらとゲストで寄稿している。瀬戸夏子、高良真実、川野芽生、乾遥香、牛尾今日子。そのうち川柳を寄稿しているのは後ろの三人。作品をいくつか引く。

   角砂糖のやうに砕けて惑星は

   はなびらの代わりに髪の毛を毟る

   「チュールスカートのままで」川野芽生

 

   二〇一七年そして一九年

   六月生まれのかしこいおしり

   「夢と魔法」乾遥香

 

   全身をえびのしっぽと思うまで

   おがくずが多くて上手く眠れない

   マリンバを拾いあつめて並べ替え

   「夏草」牛尾今日子

 現代川柳についての知識が僕は少ないので正確なことは何も言えないのだけど、川野芽生の作品は短い「短歌」だなと思う。一句目は惑星の崩壊を角砂糖が砕ける様に喩えてみせているわけだが、さほど無理のない比喩で一句の整合性は高いように思う。二句目も同様だ。しかしこれだと普段読んでいる短歌の読み味とそこまで大差がない。

 一方で乾遥香と牛尾今日子の作品はある程度「川柳」っぽいなと思う。乾の一句目は「西暦」と「そして」しか使われていない。特に意味論的な解釈を求めているようには見えず、意識的に連続性を断ち切る作りになっている。牛尾の句も全体的に文脈が入り混じる傾向を持っている。断片だけが提示され、何か価値判断を拒んでいるような印象を受ける。

 僕が現代川柳を読むときにいつも脳裏に浮かぶのは暮田真名の「川柳は上達するのか?」(『ねむらない樹』vol.6)という文章だ。「頑張り至上主義と結託したマッチョイズムにはもはや一瞬も手を貸したくない」とはとても輝いてみえる宣言である。マイケル・サンデル的なある種のメリトクラシー否定に近い問題提起だと思うが、乾と牛尾の句から「川柳」っぽさを感じるのはそのテーゼを共有しているからなのではないかと感じる(実際に乾と牛尾が暮田の文章を読んでいる可能性は高いが、それとは別に時代的な意識の共有があるだろう)。能力主義、努力主義をこれまで支えてきた日本の文化的・社会的制度の階層性や強靭さを強要する仕組みに苦しめられた人は多いと思うが(例えば受験や部活)、そういうシステムとは離れたところで表現を可能にするのが川柳という詩形なのかもしれない。あくまで暮田の川柳観を借りた解釈だが。ただどうしても、「上達」はしてしまうよなと思う。努力やマッチョから離れようとすればするほど、今度は頑張らないことを頑張るゲームに参入していないか。上手さの尺度を壊しているように読める川柳は、今度はいかに上手く上手さを壊すかを頑張っているように、(書き手は思っていなくとも)読み手としては解釈できてしまう。