アニメ・漫画は短歌にどのように詠まれてきたか

「かりん」2021.5月号 「今月のスポット」

 

 三月八日に『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開された。本作はさまざまな事情により二度の公開延期が行われており、最初に予定されていた二〇二〇年六月二十七日からは約九ヵ月も遅れることになった。僕も十日には映画館へ足を運び、十数年分の思いを募らせながら『シンエヴァ』を観た。当然ながら映像の完成度は高く、振り返ればここ数十年間、日本のアニメーションのトップはずっとエヴァだったのだなと思わされた。

   今日もまた渚カヲルが凍蝶の愛を語りに来る春である/黒瀬珂瀾『黒耀宮』

   綾波レイの髪より青きものありて西一駐車場の青空/生沼義朗『水は襤褸に』

 アニメ・漫画を題材にした歌として非常に有名な二首。どちらもエヴァのキャラクターである「渚カヲル」、「綾波レイ」を詠みこんでいる。一首目、エヴァの世界は一年を通して常夏状態なので、春は現実世界のことだろう。渚カヲルが凍蝶の愛を語りに来てもおかしくないような、美しさと愛と神秘を持った春を慈しんでいる。二首目、髪の青さと空の青さを重ねることで互いの色がより鮮やかに想起される。『黒耀宮』、『水は襤褸に』、ともにゼロ年代の歌集だが、そこから十数年を経て、サブカルチャーを引用した短歌にはどのような変化があるのだろうか。

   奪われるための眼だった臆病なきみがおおきく振りかぶるとき

   氷瀑に春が来ること 指三本ずらして打った球の行方は

   榊原紘『悪友』(※榊は正しくはしめすへん)

 『悪友』の連作「サードランナー」の二首。連作タイトルには「漫画『おおきく振りかぶって』より」と言葉が添えてある。『おおきく振りかぶって』を元ネタにしていますよ、二次創作的に作った短歌ですよ、と表明するためのものだろう。一首の外で先に「これから漫画をネタにした短歌が出てきます」と読者に了承をとることで、黒瀬や生沼の作と比べると、一首一首が元作品の世界へより深くもぐりこんでいる。もはや自分がその元作品の登場人物であるかのような距離感だ。おそらく、黒瀬や生沼の作をまったく漫画やアニメを知らない人に見せたとしても、ある程度は何の話をしているのか見当がつくだろう(それこそキャラ名をそのまま入れているくらいだ)。一方で榊原の作を一首だけで見せた場合は、元の作品をそれなりに精読していなければこれが二次創作的なものであることに気が付かないと思われる。ここにわかりやすく姿勢の変化が見て取れる。つまり、オタク的に喩えるならば、黒瀬や生沼の目線がフィギュアやポスターを撮るカメラマンなのに対して、榊原の目線はキャラになりきったり自分自身が撮られたりするコスプレイヤー側なのである。

 この心性の変化には既存の批評理論でいくらか回答を用意できるだろう。消費の観点から大塚英志東浩紀を持ってきてもよいし、コミュニケーションの観点からボカロ等の事例を持ってきて語ってもよい。ただ、それを書いたところでまた「短歌はn年遅れている」と言われるだけな気がするという悩みがある。