諦めからはじめる

「かりん」2021.8 今月のスポット

 

 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』を読んだ。僕の印象だが、既に三、四冊歌集が出ているくらいの認知度が平岡さんにはあると思う。どこの批評会に参加しても毎回パネラーとして居るし、結社、学生短歌会、ツイッターのどこの集まりに行ってもよく言及されている。僕が短歌を書き始めた二〇一七年から二〇二一年今現在まで、若手と括られる中ではずっと話題の中心にいるイメージがある。その平岡さんの第一歌集が出たとなれば、確かに事件だなと思う。

   喪服を脱いだ夜は裸でねむりたいあるいはそれが夢の痣でも

   めをとじて この瞬間に死んでいく人がいるのを嘘だと思う

 死を扱った二首。それぞれ死の「その後」と「最中」を書いている。一首目の、誰かの死後を生きていくことの脱力感、無防備さ。二首目の、今この瞬間にも無数の人が死んでいっていることへの信じられなさ、驚き。どちらの歌も死の受け入れられなさや諦められない感覚を詠んでいるように思えるが、他の歌を見るとその印象が少し違ってくる。

   いつか死ね いつかほんとに死ぬことのあいだにひしめく襞をひろげて

   ああきみは誰も死なない海に来て寿命を決めてから逢いにきて

 一首目、いつか死ねと言わずとも、大抵の生き物はいつか死ぬ。そしていつかほんとに来るその死を主体は自覚している。二首目も、いつか来る死を読者に突きつけるような内容になっている。この二首を読んで思うのは、「人生のタイムリミットの自覚」だ。「喪服~」と「めをとじて~」の歌は一種の諦められなさを詠んでいると書いたが、この二首を踏まえると、逆に限界を自覚しているからこそ出てきた諦念の言葉なのだとわかる。

 穂村弘はインタビュー等で「若いころはほんとに死ぬなんて考えたこともなかった」という趣旨の発言をたびたび繰り返しているが、ある意味そういった甘さは『みじかい髪も長い髪も炎』からは排除されている。その諦観に立った上で、平岡直子の歌は成立しているのではないかと思う(雑に歌を引けば、〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉、〈海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した〉)。

 ただ少し付け加えると、この歌集は、諦観に立った「生き延びる」という方略の一歩先にも足を伸ばしている。それが何かと言うと、自分の弱さを安易に差し出さないところだ。弱さを媒介とした自他の同化をせず、一線を引いた上で、斜め前を歩いていてくれる。そしてたまに振り返ってくれる歌集なのだ。

 統一的に語ることが難しい歌集だと思う。パワーフレーズのラッシュとも幻視とも言い難い歌の構造をしている。あとがきの言葉を借りれば、夢の中を覗いているようだ、とも言えるが、それも何か違う。パラレルワールドを同時に体験しているような感覚がある。語ることはゆるしても言い切ることはゆるさない力が歌集から読者に向かって働きかけられている気がするのだ。だからこそ何度も何度もこの歌集を読み返したくなる。