同年代同人誌の意義~文フリおつかれさまでした~

「かりん」2020.2月号 今月のスポット

 

 十一月二十四日に第二十九回文学フリマ東京が開催された。「かりん」からも数名参加しており、思いつく限りだと大井学さん(Tri)、上條素山さん(外大短歌)、僕(外大短歌)などが挙げられる。文学フリマでは主に同人誌が販売されるのだが、今回は、短歌同人誌の中でも、ここ数年の間に乱立をしている同年代同人誌について取り上げたい。

 同年代同人誌とは、同人が同年または同年度生まれで構成されている同人誌のことだ。例を挙げると、「OCTO」(一九七三年まれ)、「かんざし」(一九九四生まれ)、「ひとまる」(平成十年度生まれ)などである。これらの同人誌は、特に年鑑や図鑑のように歌人を網羅する役割を果たしているわけではなく、あくまで同年代間で同意のとれた者どうしで作られている。このような形態で短歌同人誌を作ることにどのような意義があるのか、「ひとまる2」の中で石井大成は、以下の三点にまとめている。

 

 ・「記念碑」としての創刊

 ・「灯台」としての存在

 ・「見本市」としての還元

 

 これらの三つの意義を同年代同人誌は、「(グラデーションに差はあれ)含んでいるとみることができる」と石井は述べる。

 この三つの意義を提示されて疑問に思うことは、読む側にとっての意義があまり見当たらない点である。同人誌が「記念碑」になり「灯台」になり「見本市」されることに対して、意味、恩恵があるのは制作者側だ。「同年代」の集まりであることで読者側に新しく見えてくる物があるのかどうかは、あまり想定されていないように思える(アベンジャーズ的なおもしろみがあるのはわかる)。そうなると、同年代という縛りに、読む側はそこまでの必要性は見いだせない。また、同年代縛りの同人誌が量産されていくことは、なんでもありのはずだった同人誌という形態を少しずつ縛り付けて不自由にしていくのではないかと危惧してしまう。

 石井も同旨の指摘はしており、同年同人誌の課題として、「生年という同人の括りを絶対視しすぎる傾向があ」り、「同年同人誌が記念碑的役割を果たすのはあくまで同人内部に向け」たものであると分析している。加えて、同人企画の自然消滅も課題の一つに挙げている。同年代同人誌の多くはおよそ一年から三年の間で自然消滅的に活動を休止している。そのようにして同人誌が活動を休止すると、「同人誌には参加できなかった同生年の歌人は同人になることも、新たに同人誌を立ち上げることも難しくな」る。「同年生まれという共有資産を使用した以上、幕引きはしっかり行うべき」とまとめている。

 作品そのものにユーザーフレンドリー性を求める必要はないと思う。ただ、せっかく同人誌を作るのなら、企画では読む側の襟元をグッと掴むつもりであってほしい。以上すべては僕のわがままな話なのだけど。