俳句三十句連作「塔」

塔  郡司和斗
  
木の駅の影青々とこどもの日 


更衣鏡の中を鳥一羽


朝蝉や半紙の表てらりとす  


枇杷の実や仕切りの多き進路室  


炎昼をざんと光りし滑り台   


あやとりの塔ゆふぐれはゆふやけへ    


彫像の小さきペニスを天道虫


黒鍵の隙間へ落つる玉の汗


油絵の具のざらついて裸かな


いろはすの捻らるる音天の川

 

たうがらし渚にうすみどりの瓶 


かがやきは雲間の蒼を冷えにけり


名月やレジを幾百打ち終へて  


未明それから葡萄の旬の過ぐるころ


秋晴れの海へ向きたる梟首かな


秋の初霜を蛇行の兄と姉  


冬の象鼻打ちつける打ちつけ合ふ


半地下のカレー屋しづか冬の昼


聖樹みな玉をぶらさげそよぎけり


たいやきは腹から食ふ派初日影


定義上森の大学枯木星

 

おとうとをまどかな氷柱だと思ふ


パフェの生地厚く伸ばされ春隣り


春の川自転車のベル鳴らし合ふ


うららかやパンからパンへゆくトング


閉店の「蛍の光」春の闇


ひらきたる星の図鑑や蠅生る


立夏なり貝の博物館をゆく 


いちめんの蛍火引つ越しは明日


自画像の頬やせてゐる浴衣かな  

 

(第十回俳句四季新人賞の応募作、結果は落選で対馬康子の三席、二十句くらい既発表)

文芸同人誌「焚火」発売

【内容】

①過去の読書会

大木あまり『遊星』

イシグロキョウヘイ 映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』

平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

鴇田智哉『エレメンツ』

笹井宏之賞「ねむらない樹vol.6」

津川絵理子『夜の水平線』

 

②誌上読書会

石松佳『針葉樹林』2万字程度

(郡司和斗+本野桜魚+安里琉太)

 

堀本裕樹『一栗』

(急遽収録)

 

③招待作品

阿部圭吾

川谷ふじの

佐倉誰

中矢温

横井来季

若林哲哉

 

④同人作品

本野桜魚(散文+俳句)

郡司和斗(短歌+俳句+詩)

 

 

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川柳っぽさとは?

「かりん」2021.11月号 今月のスポット

 

 髙良真実さんに送ってもらって『川柳スパイラル・第12号』を読んだ。『川柳スパイラル』は小池正博さんが発行している川柳雑誌で、同人誌と結社誌の間のような誌面構成になっている。12号以前の目次はまったく知らないのだが、今号に関しては短歌制作者として名前をよく見る方々がちらほらとゲストで寄稿している。瀬戸夏子、高良真実、川野芽生、乾遥香、牛尾今日子。そのうち川柳を寄稿しているのは後ろの三人。作品をいくつか引く。

   角砂糖のやうに砕けて惑星は

   はなびらの代わりに髪の毛を毟る

   「チュールスカートのままで」川野芽生

 

   二〇一七年そして一九年

   六月生まれのかしこいおしり

   「夢と魔法」乾遥香

 

   全身をえびのしっぽと思うまで

   おがくずが多くて上手く眠れない

   マリンバを拾いあつめて並べ替え

   「夏草」牛尾今日子

 現代川柳についての知識が僕は少ないので正確なことは何も言えないのだけど、川野芽生の作品は短い「短歌」だなと思う。一句目は惑星の崩壊を角砂糖が砕ける様に喩えてみせているわけだが、さほど無理のない比喩で一句の整合性は高いように思う。二句目も同様だ。しかしこれだと普段読んでいる短歌の読み味とそこまで大差がない。

 一方で乾遥香と牛尾今日子の作品はある程度「川柳」っぽいなと思う。乾の一句目は「西暦」と「そして」しか使われていない。特に意味論的な解釈を求めているようには見えず、意識的に連続性を断ち切る作りになっている。牛尾の句も全体的に文脈が入り混じる傾向を持っている。断片だけが提示され、何か価値判断を拒んでいるような印象を受ける。

 僕が現代川柳を読むときにいつも脳裏に浮かぶのは暮田真名の「川柳は上達するのか?」(『ねむらない樹』vol.6)という文章だ。「頑張り至上主義と結託したマッチョイズムにはもはや一瞬も手を貸したくない」とはとても輝いてみえる宣言である。マイケル・サンデル的なある種のメリトクラシー否定に近い問題提起だと思うが、乾と牛尾の句から「川柳」っぽさを感じるのはそのテーゼを共有しているからなのではないかと感じる(実際に乾と牛尾が暮田の文章を読んでいる可能性は高いが、それとは別に時代的な意識の共有があるだろう)。能力主義、努力主義をこれまで支えてきた日本の文化的・社会的制度の階層性や強靭さを強要する仕組みに苦しめられた人は多いと思うが(例えば受験や部活)、そういうシステムとは離れたところで表現を可能にするのが川柳という詩形なのかもしれない。あくまで暮田の川柳観を借りた解釈だが。ただどうしても、「上達」はしてしまうよなと思う。努力やマッチョから離れようとすればするほど、今度は頑張らないことを頑張るゲームに参入していないか。上手さの尺度を壊しているように読める川柳は、今度はいかに上手く上手さを壊すかを頑張っているように、(書き手は思っていなくとも)読み手としては解釈できてしまう。

諦めからはじめる

「かりん」2021.8 今月のスポット

 

 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』を読んだ。僕の印象だが、既に三、四冊歌集が出ているくらいの認知度が平岡さんにはあると思う。どこの批評会に参加しても毎回パネラーとして居るし、結社、学生短歌会、ツイッターのどこの集まりに行ってもよく言及されている。僕が短歌を書き始めた二〇一七年から二〇二一年今現在まで、若手と括られる中ではずっと話題の中心にいるイメージがある。その平岡さんの第一歌集が出たとなれば、確かに事件だなと思う。

   喪服を脱いだ夜は裸でねむりたいあるいはそれが夢の痣でも

   めをとじて この瞬間に死んでいく人がいるのを嘘だと思う

 死を扱った二首。それぞれ死の「その後」と「最中」を書いている。一首目の、誰かの死後を生きていくことの脱力感、無防備さ。二首目の、今この瞬間にも無数の人が死んでいっていることへの信じられなさ、驚き。どちらの歌も死の受け入れられなさや諦められない感覚を詠んでいるように思えるが、他の歌を見るとその印象が少し違ってくる。

   いつか死ね いつかほんとに死ぬことのあいだにひしめく襞をひろげて

   ああきみは誰も死なない海に来て寿命を決めてから逢いにきて

 一首目、いつか死ねと言わずとも、大抵の生き物はいつか死ぬ。そしていつかほんとに来るその死を主体は自覚している。二首目も、いつか来る死を読者に突きつけるような内容になっている。この二首を読んで思うのは、「人生のタイムリミットの自覚」だ。「喪服~」と「めをとじて~」の歌は一種の諦められなさを詠んでいると書いたが、この二首を踏まえると、逆に限界を自覚しているからこそ出てきた諦念の言葉なのだとわかる。

 穂村弘はインタビュー等で「若いころはほんとに死ぬなんて考えたこともなかった」という趣旨の発言をたびたび繰り返しているが、ある意味そういった甘さは『みじかい髪も長い髪も炎』からは排除されている。その諦観に立った上で、平岡直子の歌は成立しているのではないかと思う(雑に歌を引けば、〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉、〈海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した〉)。

 ただ少し付け加えると、この歌集は、諦観に立った「生き延びる」という方略の一歩先にも足を伸ばしている。それが何かと言うと、自分の弱さを安易に差し出さないところだ。弱さを媒介とした自他の同化をせず、一線を引いた上で、斜め前を歩いていてくれる。そしてたまに振り返ってくれる歌集なのだ。

 統一的に語ることが難しい歌集だと思う。パワーフレーズのラッシュとも幻視とも言い難い歌の構造をしている。あとがきの言葉を借りれば、夢の中を覗いているようだ、とも言えるが、それも何か違う。パラレルワールドを同時に体験しているような感覚がある。語ることはゆるしても言い切ることはゆるさない力が歌集から読者に向かって働きかけられている気がするのだ。だからこそ何度も何度もこの歌集を読み返したくなる。

アニメ・漫画は短歌にどのように詠まれてきたか

「かりん」2021.5月号 「今月のスポット」

 

 三月八日に『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開された。本作はさまざまな事情により二度の公開延期が行われており、最初に予定されていた二〇二〇年六月二十七日からは約九ヵ月も遅れることになった。僕も十日には映画館へ足を運び、十数年分の思いを募らせながら『シンエヴァ』を観た。当然ながら映像の完成度は高く、振り返ればここ数十年間、日本のアニメーションのトップはずっとエヴァだったのだなと思わされた。

   今日もまた渚カヲルが凍蝶の愛を語りに来る春である/黒瀬珂瀾『黒耀宮』

   綾波レイの髪より青きものありて西一駐車場の青空/生沼義朗『水は襤褸に』

 アニメ・漫画を題材にした歌として非常に有名な二首。どちらもエヴァのキャラクターである「渚カヲル」、「綾波レイ」を詠みこんでいる。一首目、エヴァの世界は一年を通して常夏状態なので、春は現実世界のことだろう。渚カヲルが凍蝶の愛を語りに来てもおかしくないような、美しさと愛と神秘を持った春を慈しんでいる。二首目、髪の青さと空の青さを重ねることで互いの色がより鮮やかに想起される。『黒耀宮』、『水は襤褸に』、ともにゼロ年代の歌集だが、そこから十数年を経て、サブカルチャーを引用した短歌にはどのような変化があるのだろうか。

   奪われるための眼だった臆病なきみがおおきく振りかぶるとき

   氷瀑に春が来ること 指三本ずらして打った球の行方は

   榊原紘『悪友』(※榊は正しくはしめすへん)

 『悪友』の連作「サードランナー」の二首。連作タイトルには「漫画『おおきく振りかぶって』より」と言葉が添えてある。『おおきく振りかぶって』を元ネタにしていますよ、二次創作的に作った短歌ですよ、と表明するためのものだろう。一首の外で先に「これから漫画をネタにした短歌が出てきます」と読者に了承をとることで、黒瀬や生沼の作と比べると、一首一首が元作品の世界へより深くもぐりこんでいる。もはや自分がその元作品の登場人物であるかのような距離感だ。おそらく、黒瀬や生沼の作をまったく漫画やアニメを知らない人に見せたとしても、ある程度は何の話をしているのか見当がつくだろう(それこそキャラ名をそのまま入れているくらいだ)。一方で榊原の作を一首だけで見せた場合は、元の作品をそれなりに精読していなければこれが二次創作的なものであることに気が付かないと思われる。ここにわかりやすく姿勢の変化が見て取れる。つまり、オタク的に喩えるならば、黒瀬や生沼の目線がフィギュアやポスターを撮るカメラマンなのに対して、榊原の目線はキャラになりきったり自分自身が撮られたりするコスプレイヤー側なのである。

 この心性の変化には既存の批評理論でいくらか回答を用意できるだろう。消費の観点から大塚英志東浩紀を持ってきてもよいし、コミュニケーションの観点からボカロ等の事例を持ってきて語ってもよい。ただ、それを書いたところでまた「短歌はn年遅れている」と言われるだけな気がするという悩みがある。

中止になった大学短歌バトル

「かりん」2021.2月号 今月のスポット

 

 角川「短歌」十二月号に特別企画として「大学短歌バトル2020 詠草発表」が掲載されている。この詠草集には今年の3月に開催される予定だった大学短歌バトルのトーナメント(予選ではない)の短歌が全首載っており、短い選評も付いている。大会が中止に なってしまったことは大変残念で、僕も一出場者としてたくさん準備してきたので色々と言いたいことはあるけれど、まずは各チームの作品が日の目を見ることができて良かったと思う。気になった短歌をいくつか読んでいきたい。

   真顔でも唇にちいさな角度 サフランライスに香りを探る  

   シー短歌会 土屋映里

 唇の細かいところの発見が冴えている。誰かと食事をしている場面だろうか。視覚的にも嗅覚的にも鋭敏になっている主体像が立ち上がることで、反射的に食事相手の存在感も増してくる。または、これは一人で食事をしている場面で、自分の唇に焦点が合っていると考えても、三人称のその俯瞰した視点がおもしろい。

   海牛は海のつまさき くつしたの色の数ほどとりどりに這う

   シー短歌会 狩峰隆希

 海牛のフォルムからつまさきを連想し、次いで靴下へシームレスに一首を展開する。見立てのうまさと具体物の半抽象化が光る。大きな景と小さい景の遠近感も上手い。

   羊水の味を覚えているという友達と回し飲みするポカリ

   早稲田短歌会 阿部圭吾

 微妙に嘘をついている感じが良い一首だと思う。友達の言っていることは半分冗談だと読んだ。まさか回し飲みするポカリは羊水の味などしないと思うが、微かにしそうでもある。記憶の神秘性と友人との関係性を魅せてくる歌だ。

   春の雨まだ降っているはじめてのカフェを出るときもらうクーポン

   二松学舎大学松風短詩会 八品舞子

 時間経過の描き方が見事。やさしく降る春の雨を眺めつつ、はじめてのカフェで過ごす充実した時間が最後クーポンに収斂していく。

   半地下よりカレーの香り流れくる店なり兄と待ち合わせする 

   判者チーム 栗木京子

 半地下、でやられたと思った。都会のごみごみした感じやカレー屋独特の雰囲気の具体としてほぼ完ぺきな舞台だろう。

 おそらく来年(この文章は年末作成)もコロナの関係で対面の大会等は開きにくいだろう。遠隔収録で対戦できるようにするのか、感染対策を万全にしてリアルで行うのか、角川がどちらにするつもりなのかはわからないが、後輩組の力になれることがあるのなら何でも手伝いたいと思っている。

テン年代の短歌

「かりん」2020.11月号 今月のスポット

 

 九月五日に現代俳句協会青年部主催による勉強会「テン年代が俳句に与えたもの」がYouTube liveにて開催された。俳句に関する発表が中心に行われた勉強会であったが、ゲスト的なポジションとして短歌サイドからも瀬口真司(立教大学大学院博士課程後期所属)による発表が行われた。

 瀬口の発表は「「テン年代」の心性と短歌」と題されたもので、増田聡濱野智史穂村弘斉藤斎藤等の先行テクストを踏まえながら、「テン年代」の心性が表れていると思われる短歌作品を、具体例を挙げつつ考察していく内容だった。併せて、当日はあまり触れられていなかったが、俳句、短歌というジャンル内のジャンルが細分化されていくこと  で、既存の秀句性/秀歌性がどう位置付けられていくのか、つまりこれまでの「上達」がどの程度有効なのかという問いも資料では提起されていた。

 瀬口が挙げていたテン年代に特徴的な短歌についていくつかみていきたい。

 

〇単線的な生 VS.いま・ここにない(けどある)時間

父親とラッパの写真 父親は若くなりラッパを吹いている/阿波野巧也

 

 私の、いま・ここにある生に対して、過去に確かにあった父親の時間が併存している感覚は、決してテン年代から現れたものではないと思うが、科学技術の発展によりあらゆる出来事がアーカイブ化される世界にあっては、その感覚が顕著に出現するのかもしれない。

 

〇肯定と不安(消費し、消費されるわたしたち)

かわいいよ、がんばってって願ってるAKBの深夜番組/武田穂佳

 

 加速主義が一定の影響力を持つほどにわたしたちはこの資本主義に疲弊しきっている。その中で消費し、自分自身も無自覚に消費される構造から逃れるためにアイドル≒神を希求するも、そのアイドル≒神すらも資本主義に組み込まれている現実がある。

 

〇宙吊り・先送り・断片化――未決定になる「物語」の意味

酒が飲める ことがうれしい CM の歌 むごすぎる 「けっこう 見ていきましょう/伊舎堂仁

 

 断片化や物語の筋を分解していく手法は、テン年代的心性というよりポストモダン文学の特徴として既に八十年代には出尽くしている気もするが、あくまでも短歌において一首単位で表象されるようになったのはテン年代が中心ということになるのだろうか。

 二〇二〇年が始まってもう九ヶ月が経過した。次のディケイドが来るのもきっとあっという間なのだろう。短歌におけるテン年代の想像力について記述を急がなければならないと思う。