テン年代の短歌

「かりん」2020.11月号 今月のスポット

 

 九月五日に現代俳句協会青年部主催による勉強会「テン年代が俳句に与えたもの」がYouTube liveにて開催された。俳句に関する発表が中心に行われた勉強会であったが、ゲスト的なポジションとして短歌サイドからも瀬口真司(立教大学大学院博士課程後期所属)による発表が行われた。

 瀬口の発表は「「テン年代」の心性と短歌」と題されたもので、増田聡濱野智史穂村弘斉藤斎藤等の先行テクストを踏まえながら、「テン年代」の心性が表れていると思われる短歌作品を、具体例を挙げつつ考察していく内容だった。併せて、当日はあまり触れられていなかったが、俳句、短歌というジャンル内のジャンルが細分化されていくこと  で、既存の秀句性/秀歌性がどう位置付けられていくのか、つまりこれまでの「上達」がどの程度有効なのかという問いも資料では提起されていた。

 瀬口が挙げていたテン年代に特徴的な短歌についていくつかみていきたい。

 

〇単線的な生 VS.いま・ここにない(けどある)時間

父親とラッパの写真 父親は若くなりラッパを吹いている/阿波野巧也

 

 私の、いま・ここにある生に対して、過去に確かにあった父親の時間が併存している感覚は、決してテン年代から現れたものではないと思うが、科学技術の発展によりあらゆる出来事がアーカイブ化される世界にあっては、その感覚が顕著に出現するのかもしれない。

 

〇肯定と不安(消費し、消費されるわたしたち)

かわいいよ、がんばってって願ってるAKBの深夜番組/武田穂佳

 

 加速主義が一定の影響力を持つほどにわたしたちはこの資本主義に疲弊しきっている。その中で消費し、自分自身も無自覚に消費される構造から逃れるためにアイドル≒神を希求するも、そのアイドル≒神すらも資本主義に組み込まれている現実がある。

 

〇宙吊り・先送り・断片化――未決定になる「物語」の意味

酒が飲める ことがうれしい CM の歌 むごすぎる 「けっこう 見ていきましょう/伊舎堂仁

 

 断片化や物語の筋を分解していく手法は、テン年代的心性というよりポストモダン文学の特徴として既に八十年代には出尽くしている気もするが、あくまでも短歌において一首単位で表象されるようになったのはテン年代が中心ということになるのだろうか。

 二〇二〇年が始まってもう九ヶ月が経過した。次のディケイドが来るのもきっとあっという間なのだろう。短歌におけるテン年代の想像力について記述を急がなければならないと思う。