リアリズムってなんだ

「かりん」2020.8月号 今月のスポット

 

 「短歌研究」2020年6月号において、「永井祐」と「短歌2010」、という特集が組まれた。おそらく、短歌研究社から永井祐の第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』が再刊されたことをきっかけとしての特集だろう。第一部では、見開きの評論を穂村弘枡野浩一、大森静佳の三氏が寄稿している。また、第二部では、永井祐本人のロングインタビューも掲載されている。

 この特集内でよく言及されているのが、口語短歌のリアリズムについてだ。最初に誰が言い出したのかはわからないけれど(穂村弘?)、まるで自明であるかのように、永井祐は口語短歌によるリアリズムの更新という問題意識を持っている、と語られているような気がする。少なくとも、僕が永井祐を初めて読んだ2018年時点では、そのように捉えられていたと思う。なので、あまりに当たり前のように引き合いに出される「リアリズム」が口語短歌、もしくは永井祐個人のどのような文脈に乗せられているのか気になりながら、特集を読んだ。

 特集の第二部で、インタビュアーの梅崎実奈が『日本の中でたのしく暮らす』のリアリズムについて以下のような資料を作成していた。

・現実の再確認のリアリズム

看板の下でつつじが咲いている つつじはわたしが知っている花

・身の丈感のリアリズム

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる

・間と気分のリアリズム

 春の星 ふとんの下に本があると思ったま ま 日曜日

 正直なところ、この括りで良ければなんでもありのような気がする。「リアリズム」という言葉がマジックワードになっていて、よけいに歌の読みが鈍ってくると思うし、リアリズムという言葉を短歌の批評の中でどう使用しているのかも曖昧な印象を持つ。

 短歌の評で使われているリアリズムがごちゃごちゃしている理由は、自然主義的リアリズムと写実主義的リアリズムを使い分けることなく文脈と引用歌に併せて「リアリズム」と一語で括ってしまうからだろう。「リアリズム」とだけ書かれると、世界文学史的にはどちらかというと自然主義的なニュアンスのほうが強い気がする。短歌の世界では写実主義的な、認識忠実主義的な意味でリアリズムという語が使われている。永井祐はインタビューでこう述べる。

 

永井 俯瞰してマクロに見ない、とにかく自分の視点で見るというのは、途中からですけど、ある程度、テーマになっている気がします。(中略)。元の位置の視点に全部戻して、次の角を曲がったら何があるかが不確定な状態になると、むしろ物事に生気が出てくる。

 

 永井祐自身は、FPS(一人称のゲーム)のような視点を大事にしているようだ。「リアル」であることをどのように捉えているのかも何となく理解できる。リアリズムという言葉を当てはめる前に、各々今一度丁寧に言語化し直してみるほうが、思索のすり合わせができて実りがあるかもしれない、と思う。