掌編小説「500円」

就職の試験の後に駅前の日高屋でとんこつラーメンを食べていた。外に出ると、よれよれの作業着と汚いズボンを身に付けたおじさんと目があった。

「ねぇ、そこのおにいちゃん、おじさん財布すられちゃってさ、帰りの電車賃500円だけくれないかなぁ」

おじさんはそう言うと、手のひらを上に向けながら黒ずんだ右腕を差し出してきた。

なんだこの人と思いつつも、どこかなつっこい雰囲気を出していたので、「どうしたんですかあ」とつい話を聞いてしまった。

「さっき買い物してたらよぉ、気づいたら財布なくなってたんだ」

おじさんの左腕にはダイソーのビニール袋が下げてある。ビニール袋の中にはプラスチックの箱が入っていた。どうやらダイソーですられたらしい。もしそうなら、なかなかに痛い経験だ。数百円の買い物のためにいったいいくら失くしてしまったのだろうか。

「おじさん、ほんとにすられちゃったの? ほんとにすられちゃったのなら、いいよ、500円あげる」

と、僕が言うと

「いやーわりぃ」

と、おじさんはさして悪くなさそうな顔をして顎をさすりながら言った。

「でもその前に交番に報告にいこう、後で見つかるかもしれない」

おじさんのことを完全に信じた訳ではなかったので、なんとなくいじわるで提案してみた。

「いや、交番はいい、500円だけでいい」

「いやでも見つかった方がいいでしょ」

「じゃあ500円くれたら後でいくから」

「いや、じゃあじゃなくて、駅前交番が目の前にあるのに」

「ほんとに、500円だけでいいから」

似たような問答を繰り返していたら、ああ、この人は、今、本物の乞食ってやつをしているんだな、ということがわかってきて、いじわるなことを訊かずに500円をすぐに渡せばよかったなと後悔した。

「ああ、じゃあ、いいよ、500円、いらないよ、ごめんな、悪かったな」

急に声を小さくするから、なんだか本当に悪いと思いながら言っているような感じがした。

乞食をするくらいならもっと図太くいてくれないと、なんだかバランスが悪くないか。変な駆け引きに持ち込んだこっちが悪いことをしたみたいな気持ちになる。というか、このおじさんのリアクションは、乞食する相手をそういう気持ちにさせることでお金が貰いやすくなるというテクニックなんだろうなとは気づいていたんだけど、相手にそのテクニックを気づかせるところも含めてテクニックという感じがして、素直に気づきたくなかった。相手に、自分を憐れませるように、悟らせるように、把握させるように、気持ちを誘導させる。僕はまんまとその術中にはまってしまった。

「いや、ごめんなさい、これ、どうぞ」

そう言って僕は500円をおじさんに渡した。

「いやあ、ほんとに、ありがと」

おじさんは500円玉をお駄賃でももらったかのようにかるく握りしめた。

 

 

なんか今日は色々疲れたなあとため息をつきながらSuicaにお金をチャージし、南口の改札へ入ろうとした。入ろうとしたけど、その瞬間、ある想いが胸をよぎった。

そういえば、僕はおじさんを完全に乞食として認定したけど、もしかしたら本当に困っているだけだったのかもしれない。もしそうだとしたら、とても失礼なことを勝手に考えてしまった。口には出さず、心のなかだけで思ったことだとしても、(おじさんと僕の一対一の関係の上での)おじさんの名誉のために、僕自身の思い込みを放置したまま帰るわけにはいかなくなった。

くるっとUターンして改札を背に歩き出すと、おじさんがまだ駅前ロータリーのバス停で休んでいるのが見えた。見つかりたくないので駅の柱に僕は隠れた。

おじさんはスマホで誰かに電話をしていた。財布をなくしたことを連絡しているのかもしれない。電話を終えると今度はコンビニと交番の間を行ったり来たりしはじめた。おまわりさんに財布をすられたことをどう説明しようか考えをまとめているのだろうか。おじさんは行ったり来たりするばかりで、一向に交番に入らない。頼むから交番に入ってくれと祈った。そうしたらすべてがまるくおさまる。おじさんは嘘をついていなくて、疑った僕が悪かったのだと。たった数分のはずなのに気の遠くなる時間が経っているような感覚に耐えながら、僕はおじさんを見つめていた。

ちょうど、雲が晴れて夕陽が差してきた。夏の夕暮れの痛い光はロータリーの水溜まりにはねかえり、きらめく刃物のように僕に迫った。目を眩ませているときの一瞬だった。おじさんは意を決したかのように背筋を伸ばし、そして、交番ではなくコンビニへ入っていった。

ああこれは、と、疑いはもう確信になってしまった。というよりも、僕は、最初から確信はしていた。僕は、それなのにごもっともな理屈をつけて事実を確かめようとする、ただのへそまがり野郎だった。自分の悪趣味な嗜好に気づかないふりをするのはもう無理だなと思った。

夕陽の角度が数ミリ浅くなったころ、おじさんがコンビニから出てきた。

右手には、コンビニ弁当が入った茶色のビニール袋を下げていた。夕陽に照らされて、ビニール袋がきらきらしていた。