やっとこさ「Sister On a Water vol.3」を読んだ。
この号は三上春海さんと初谷むいさんの特集が組まれていて、さらに口語短歌の特徴についても多く言及されている。いくつか列挙すると、
・文語と口語の差異
・口語の様式化
・旧かな新かなという区分
・ですます調
・一字空け
・破調
などなど。座談会等も含めた論考の感想としては、文語/口語という対立を、みんなけっこう使っているなという印象だった。もちろん何人かは、文語/口語という分け方が現在はあまり有効ではないと提言した上で、もしくは違和感を記した上で、文章を書いているようだったけども。
実際僕も、口語短歌について何かを書くとき、文語/口語という区分で話を進めて行くのは単純すぎるというか、そこまで有効ではないなと思っている(こういう考えはこれまでに文語/口語で対立させた議論が積み重なっている前提なんだけど)。
いくつかの論考を読んでいて、最近ちらほらインターネッツで目にする書き言葉/話し言葉で短歌を捉えようとする読みを思い出した。書き言葉=記述的言語、話し言葉=発話的言語、として僕はざっくり捉えている。この枠で考えると、短歌を〈文語の短歌〉〈口語の短歌〉で分類していくのではなく、〈記述的言語の短歌〉〈発話的言語の短歌〉〈記述発話ミックスの短歌〉でみていくことになるのだろうか。個人的な例歌を挙げてみる。
【記述的言語の短歌】
スキー板持ってる人も酔って目を閉じてる人も月夜の電車/永井祐
真昼間のランドリーまで出でし間に黄色い不在通知が届く/吉田恭大
恋人の人さし指と中指と親指はぶどうをつまみとる/三上春海
手元にある本からいくつか引いてみた。三首とも、作中には5、6秒のミニミュージックビデオのような場面だけがあって、特に〈わたし〉の語りはない(ように見える)。多くの口語短歌がこれに当てはまるだろうと思って歌集を捲っていたら、意外と見つからなくて驚いた。
どの短歌も結構な割合で一首に呼びかけであったり発話の語尾が混ざっていたりして、かなりの数がミックスでできているようだった。こういう視点で歌をあんまり探したことがなかったから、歌を探していて変に勉強になってしまった。短歌用語で地の歌(小説でいう所の地の文みたいな)っていう言葉があるけど、そういう歌が該当するのだろうか。歌に〈景〉だけがあるのか(俳句的な感じで)、〈わたし〉のレンズを通した〈景〉があるのか、捉え方によって分類が少し分かれてきそうで、なかなか曖昧にしか評価できず難しい。
【発話的言語の短歌】
「猫なげるくらいが何よ本気出して怒りゃハミガキしぼりきるわよ」/穂村弘
目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき/穂村弘
かんたんに「原ばく落とす」とか言うな
わらうな
マユリーをつれて帰るな/今橋愛
こっちはかなり歌を引きやすかった。初期の穂村弘が多用していた一首全部が引用符で括られてでできた短歌や引用符で括らず内心の発話とする短歌、敬体の使用等、様々な形で〈わたしの語り〉がぬっとあらわれてくる。ただ、発話的と言ってもいくつかのレイヤーが分かれているっぽくて、なんか半分くらい書き言葉っぽい歌(今挙げた中なら一首目の穂村さんの歌?)から今橋さんのような、より断片的で、意識の流れのままに書かれた感じのする歌まで、かなりグラデーションがあるように思う。
また、会話やセリフの形を完全にはとっていなくても、結句が「〇〇したい」「〇〇だよ」のようなつぶやきにちかい形をとっている作品は、叙述でありながら内心の発話も兼ねているように読める。そういう一首は、発話的言語の短歌とも記述的言語の短歌ともどちらともいえるのだろう。
【ミックスの短歌】
夏が来る前には春があったでしょう あったんだよ、そういうことが/乾遥香
自転車を押す間だけ空くサドルでも、ああ、そうか、そうでもないか/岩田怜武
大丈夫、これは電車の揺れだから、インスタントのスープを作る/郡司和斗
会話、呼びかけ、つぶやき等の細かな口調や語尾をすべて含めれば、相当数の口語短歌がこの分類になるのだろうか。挙げた歌は三首とも三句目と四句目の間に叙述と発話のちょうど中間のような支点が置かれている。そこを境として、歌が段階的に叙述→発話へとシフトしている。
ミックスの歌には、すでに鉄板の型があるように思う。誰が言い出したのかわからないけど、「つぶやき実景」と評される構造の歌だ。意味はそのままで、一首を大まかに上下で分割して、上下のどちらかを〈景〉、もう片方を独白なりセリフなりの〈つぶやき〉にした短歌のことだと僕は思っている(そのままで、と言いつつあんまり厳密にはわかってません)。
来週もお祭りあればいいよねえシチューの煮えている台所/阿部圭吾
街灯がぽおんぽおんと立っている わたしの心を選んでほしい/武田穂佳
引いたこの二首のような、パターン。阿部君の歌のようにつぶやきと景を地続きで書くケースもあれば、武田さんの歌のように一字空けて、景が思いの具象になるケースもある。
少し発展形で、
三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす/宇都宮敦
手のなかでルービックキューブが揃うそのやわらかさ 忘れてほしい/青松輝
とかの歌も挙げられる。宇都宮さんの場合は歌が三分割させていて、叙述の間に発話的言語が挿入される形になっている。青松さんの場合は、阿部君や武田さんの歌と構造はほぼ同じだけど、阿部君と武田さんの歌が記述的言語と発話的言語の半々なのに対して、かなり偏ったバランスになっている。
以上七首を挙げたけど、ミックスの歌はだいたいこういうパターンでできていることが多いかなーと思う。
ミックスの歌のなかでも、最近は句読点を使った歌が気になっている。
あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の/千種創一
エスカレーター、えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜をおもうよ/初谷むい
この二首はとても魅力的だけど、その魅力がどこにあるのかをなかなか言語化しにくいところがある。いや、歌意や韻律のいじりくり方とか、言及するところはたくさんあるんだけど、そこを掘ってもこれらの歌のおもしろさに迫っている感じがあまりしない。
最近はこういう読み味の歌が多い気がして、さっき引用をした、乾さんと岩田さんの歌とかも該当するのだろうか。あくまで個人的に、これらの歌の良さを端的に表すと、「口調」とか「しゃべりの癖」が出ているところだと思っている。そしてその「口調」や「しゃべりの癖」を表すために句読点が一役買っているところはあると思う。一字空けほど明確に一首を内部で分裂させず、記述/発話の言語を混ぜたり、切り替えたりする。その混ざりや切り替えの〈隙間〉にぽろっと口調が漏れているイメージで僕は捉えている。
それに併せて、ミックスされた言語が一首のなかで反発運動を繰り返すから、人称がずれたり、文脈の飛躍が起きたりするのだろう。一首のなかの言語切り替えのシークエンスがダイナミズムを生んで、作品に立体的な魅力を持たせている。そんな印象を僕は受けている。他の人はここらへんの歌をどう捉えているのかとても気になる。
【まとめ】
文語/口語で短歌を分けて考えるより、書き言葉/話し言葉で捉え直してみるほうが新しい短歌の魅力に気が付くかも!
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このブログを書いている途中で、平英之さんという方が下記の通りの記事を更新していたのだけど、僕が言いたかったことのめっちゃアップデートバージョンの内容が書かれているので、ぜひ読んでみてほしい(読んでみてほしいと言えるほど僕も平さんの記事を理解できていないし、僕のブログのぽんこつぶりがあらわになるので、誘導するのが本当は恥ずかしい)。
あと、これも読んだことがなくて恥ずかしいのだけど、三上春海さんの「歌とテクストの相克」という論文が近いテーマらしいので、気になった人はそちらもどうぞ。
最後まで目を通してくれた方、ありがとうございました。
流し読みしてくれた方も、ありがとうございました。
郡司和斗