放浪息子 感想

放浪息子15巻を読み終えた。10年ほどかけて連載されていた作品らしく、途中めきめきと漫画の技術が上達していて改めて漫画家ってすごいなあと思った。

 

作中の時間もほぼ現実の連載時間と合わせて進行しているらしく、小学5年生から始まった物語は、最後主人公が大学に進学するところまで至ることになった。

 

感想を書いていく前に簡単な概要を載せておく。

【概要】

性自認に揺らぎを抱える二人の主人公・高槻よしのと二鳥修一の、葛藤や恋愛を経て成長してゆく小学生から高校生までの姿を描く。また、二人の友人や家族など周囲の多くの登場人物の思春期を描いた群像劇でもある。トランスジェンダーや異性装という軽くはないテーマを、淡々としながらも温かみのある独特の筆致で描き切った。wikiコピペ

 

 

 

一般的にこの漫画はLGBTqをテーマに扱っているとされている。実際その通りなのだけど、15巻まで読みきると思ったよりもその印象は薄まっていて、ふつうの青春漫画的な後味が残っている。

 

人によっては、志村貴子が出したこの結論に納得がいかないかもしれない。けれども、商業誌の連載であることを考えるとある程度は個人が納得をしなければならないとも思う。

 

まあ、それらを差し引いても人間関係や心情の細かな描き方にありあまる価値があると思うから、佳作であることに変わりはないだろう。

 

キャラクター、漫画のテクニック、ストーリー、書き記しておきたいことはたくさんあるのだけど、今回は最終巻での二鳥くんの扱いについて考えていたことを書いておきたい。

 

まず前提として、二鳥くんの性自認や性指向を簡単に定めることはできない(定める必要すらない)。二鳥くんは、女の子になりたいし女の子の格好をしたい。けれども異性が好きだし、自分が男の身体に変わっていくことに拒絶感を覚えつつも、あくまで自分は男だと思っている描写もある。こちらは、二鳥くんは二鳥くんの性として、とりあえず受け取っている。

 

15巻で二鳥くんは、周囲からの評価によって(骨格が太い、声が男、背が高い、筋肉がある等)、「僕は男だ」と心の中でつぶやく。一応、これが志村貴子が出した暫定解であるわけであるが、ここの解釈が放浪息子の評価の分かれ目であるような気がする。大枠でふたつの解釈があるように思う。

 

ひとつは、志村貴子は二鳥くんを通して最終的には現状追認しかしていないじゃないか、という解釈だ。

 

どうしようもない社会からの圧迫によって二鳥くんは、「やっぱり僕は男」と受けとめる。その上で親しい人には本心を伝えるけれども、これからも社会上は男として生きていくような気配をさせて漫画は終わっている(社会人編とかはないのでその後はわからないけれど)。漫画の結末を受けて、放浪息子を批判する場合はこういう筋が多いんだと勝手に思ってる。

 

もうひとつは、二鳥くんの「僕は男だ」というつぶやきは彼の絶望であって、それは逆説的に現実の社会を問うものになっているし、ぜんぜん現状追認ではない、という解釈だ。

 

どっちかと言うと僕はこっち派だ。というのも、じゃあ作中社会がセクマイにとても寛容なところかスタートする、あるいは寛容な社会に変わっていく物語として進んでいたら、そこまで胸に引っ掛かる作品になったかというと、そうは思えないからだ。(てかそもそも現実よりかなり寛容だけど、主人公の周り)。

 

もし、作中社会の受容が変わっていく作品として作られて、二鳥くんが中学生編あたりからずっと女の子の格好を誰にも害されることなくできるお話になったら、それはそれで素晴らしいことだけど、めっちゃ現実を無視していることになると思う。それって、むしろより一層現状追認になってないか。

 

そんなことを考えていたので、最終巻の流れはあれで良かったんじゃないのかな~と思っている。

 

実は、放浪息子に関しては、テーマというよりもキャラクターとか人間関係(相関)が趣味で好きになったところがある。だから、本当は安那ちゃんや千葉さんの魅力を書きまくったりするべきなんだろうな。

 

あ~~~10年後とかに記憶が薄れてきたころ読み直して~~~~。    

 

               おわり