阿部圭吾の短歌

花びら、と君の向こうを指差せば君が払うまぼろしの花びら/阿部圭吾「春の公園」『早稲田短歌49号』

 

最近、阿部くんの作品をどんどん好きになっている。この歌はわせたんの歌会で読んだのが最初だろうか。一読して、まずは構造に目がいく。かなり短歌そのものの財産となっている、上の句と下の句を鏡合わせにする、という構造をとっている。

 

この構造を使う効果としては、短歌の呪文性がより増す、というのが挙げられるだろう。そもそも短歌自体が呪文のよう(やたらみんな諳じて唱える)というか、呪術性の高いものだと思うが、その性質をより強化してくる。

 

呪文性が強化されるとどうなるのかというと、実用的な話から言うと暗唱されやすくなる、覚えてもらいやすくなる、ということになると思う。少しセコいことを僕が書いているように思われるかもしれないが、別に何かを暴きたいとかそういう訳じゃない。作品をいかにみせるかという点で、僕は完全無垢に見える(見せかける)作品よりもこういう作品のほうが信頼できる(できた)ということ。

 

で、作品世界の中でどう呪文性の強化が作用しているかを考えるほうがたぶん大切だと思う(のだけど)。作品世界の中では、それこそこの歌で言っちゃってる〈まぼろし〉感のようなものが、鏡合わせ構造をとることで、一首にまとわりついているのかな、と考えている。

 

(いきなりだけど、この歌じゃない話をします、ごめんなさい)

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり/永井陽子『モーツァルトの電話帳』

という超有名な歌があるのだけど、この歌も歌の世界は〈まぼろし〉だと僕は思っている。ひまわり畑の光景が浮かぶけれども、それはなんだか、遠くて、霞がかっていて、夢の中みたいだ。そしてその〈まぼろし〉感がなぜ表れてくるのかを考えたとき、鏡合わせという構造が〈まぼろし〉感の出現を支えているのかな、という思いに至った(フレーズの反転した繰り返しによって生み出る残像、〈の〉のつながりによるずらし、語が重複しているにもかかわらず増える情報量によるバグ感、などなどの理由から)。

 

 

阿部くんの歌に戻ると、この歌もまぼろしなんだよな。まぼろしのような歌の世界の中で君がまぼろしの花びらを払うというまるでまぼろしのような光景がひろがるという、夢が覚めても夢の中、みたいな、ドラえもんでそんな話あったな、みたいなことになっている。

 

このまぼろしの重層性が、うつくしさと同時におそろしさとかも連れてきて、歌の世界に綺麗なものだけでなく、カオスも生み出しているのだと思う。俗に言う〈奥行きがある歌〉的な。

 

 

かなり当たり前のことをつらつらと書いたけど、結論は、阿部くんの歌いいな…ということです。阿部くんは間違いなく同世代の中でもすごい作家になると、僕は確信しているので、これからも作品を、読んで、いくぜ!

 

おわり