松風新歓

新歓をした。

コロナウイルスのせいで会うことが許されないから、Skypeで句会をした。オンラインゆえの支障はいろいろと出てくるんだけど、なんとなく今後も続けられそうな雰囲気はある。

あんまり人と話さない生活が続いているから、こういう機会があると必要以上にくだらないことをしゃべってしまう。Tくんが「所沢住みです」って言ったときに「所沢ってPSYCHO-PASSの作中で犯罪係数の高い人たちが療養する施設があるんだよ」とかクソどうでもいいことを話してしまった。

最近は、サークルの寿命をいかに延ばすかということをよく考えている。大学に短詩会を作って四年目になる。作って四年目ということは察しの通り僕は四年生であり、就職がうまくいかないもしくは卒業論文が書けないことにならない限り、今年度で卒業することになる。伝統がなく規模も小さいサークルとは儚いもので、やる気がある人が抜けてしまうとあっというまに自然消滅するものだ。

今回の新歓で、そんなうちのサークルにとても信頼できて創作に精力的な後輩が入ってくれた。感謝感激雨あられです。感謝感激雨あられって人生で初めて使ったな。あんまり大袈裟なことを言うと信頼が失われるのでこれ以上は言わないけど、マジでツナガリーヨって感じです。イナズマイレブン吹雪士郎派です。

サークルに入ってくれた人と一年間しか一緒に活動できないの、本当にさみしいな。コロナウイルスも大変だし、みんなでせーのって言って一年間あるゆることを先延ばしにしようよう。まあそんな甘い話はないんだけども。

楽しくやっていきたいね。

 

 

放浪息子 感想

放浪息子15巻を読み終えた。10年ほどかけて連載されていた作品らしく、途中めきめきと漫画の技術が上達していて改めて漫画家ってすごいなあと思った。

 

作中の時間もほぼ現実の連載時間と合わせて進行しているらしく、小学5年生から始まった物語は、最後主人公が大学に進学するところまで至ることになった。

 

感想を書いていく前に簡単な概要を載せておく。

【概要】

性自認に揺らぎを抱える二人の主人公・高槻よしのと二鳥修一の、葛藤や恋愛を経て成長してゆく小学生から高校生までの姿を描く。また、二人の友人や家族など周囲の多くの登場人物の思春期を描いた群像劇でもある。トランスジェンダーや異性装という軽くはないテーマを、淡々としながらも温かみのある独特の筆致で描き切った。wikiコピペ

 

 

 

一般的にこの漫画はLGBTqをテーマに扱っているとされている。実際その通りなのだけど、15巻まで読みきると思ったよりもその印象は薄まっていて、ふつうの青春漫画的な後味が残っている。

 

人によっては、志村貴子が出したこの結論に納得がいかないかもしれない。けれども、商業誌の連載であることを考えるとある程度は個人が納得をしなければならないとも思う。

 

まあ、それらを差し引いても人間関係や心情の細かな描き方にありあまる価値があると思うから、佳作であることに変わりはないだろう。

 

キャラクター、漫画のテクニック、ストーリー、書き記しておきたいことはたくさんあるのだけど、今回は最終巻での二鳥くんの扱いについて考えていたことを書いておきたい。

 

まず前提として、二鳥くんの性自認や性指向を簡単に定めることはできない(定める必要すらない)。二鳥くんは、女の子になりたいし女の子の格好をしたい。けれども異性が好きだし、自分が男の身体に変わっていくことに拒絶感を覚えつつも、あくまで自分は男だと思っている描写もある。こちらは、二鳥くんは二鳥くんの性として、とりあえず受け取っている。

 

15巻で二鳥くんは、周囲からの評価によって(骨格が太い、声が男、背が高い、筋肉がある等)、「僕は男だ」と心の中でつぶやく。一応、これが志村貴子が出した暫定解であるわけであるが、ここの解釈が放浪息子の評価の分かれ目であるような気がする。大枠でふたつの解釈があるように思う。

 

ひとつは、志村貴子は二鳥くんを通して最終的には現状追認しかしていないじゃないか、という解釈だ。

 

どうしようもない社会からの圧迫によって二鳥くんは、「やっぱり僕は男」と受けとめる。その上で親しい人には本心を伝えるけれども、これからも社会上は男として生きていくような気配をさせて漫画は終わっている(社会人編とかはないのでその後はわからないけれど)。漫画の結末を受けて、放浪息子を批判する場合はこういう筋が多いんだと勝手に思ってる。

 

もうひとつは、二鳥くんの「僕は男だ」というつぶやきは彼の絶望であって、それは逆説的に現実の社会を問うものになっているし、ぜんぜん現状追認ではない、という解釈だ。

 

どっちかと言うと僕はこっち派だ。というのも、じゃあ作中社会がセクマイにとても寛容なところかスタートする、あるいは寛容な社会に変わっていく物語として進んでいたら、そこまで胸に引っ掛かる作品になったかというと、そうは思えないからだ。(てかそもそも現実よりかなり寛容だけど、主人公の周り)。

 

もし、作中社会の受容が変わっていく作品として作られて、二鳥くんが中学生編あたりからずっと女の子の格好を誰にも害されることなくできるお話になったら、それはそれで素晴らしいことだけど、めっちゃ現実を無視していることになると思う。それって、むしろより一層現状追認になってないか。

 

そんなことを考えていたので、最終巻の流れはあれで良かったんじゃないのかな~と思っている。

 

実は、放浪息子に関しては、テーマというよりもキャラクターとか人間関係(相関)が趣味で好きになったところがある。だから、本当は安那ちゃんや千葉さんの魅力を書きまくったりするべきなんだろうな。

 

あ~~~10年後とかに記憶が薄れてきたころ読み直して~~~~。    

 

               おわり

口語俳句十五句

こんにちは、ぐんじです。

 

佐々木泰樹育英会という財団が主催している給付型奨学金奨学生と口語詩句新人賞奨励賞に選んでもらいました。

 

選考にあたって、財団が持つ謎のサイトに一年間作品を投稿し続けたのですが、サイトに作品を眠らせたままなのももったいないので、記念にいくつかこのブログに公開したいと思います。

 

普段は短歌のほうを多く作っているのですが、口語詩ならなんでも送ることができるということで、せっかくなのでサイトには俳句だけ投稿していました。十七音の短歌にならないようにするのが地味に難しかったです。

 

画像とテキスト両方載せておきます。※このサイトは既発表作品投稿OK

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雨季そしてたのしい駅になりたいな

 

ミニギターつい買っちゃった初夏の旅

 

虹の内側がわたしの少年期

 

蟻ひとつ這いよる星座早見表

 

左利きのひと増えてきて秋の雨

 

赤蜻蛉文字の小さな同人誌

 

ほろほろとひかります釜揚げうどん

 

冬の鹿役の子がとおくを見てる

 

冬の象鼻打ちつける打ちつけあう

 

ぽこぽこと煮てぽこぽこと食う雑煮

 

バイトすぐやめるし庭の雪食べる

 

あるだけの鈴を抱えて春の海

 

団地というさみしい楽器春の宵

 

だぼだぼのたましいを着て凧あげる

 

水瓶に沈む譜面よ笹井の忌

 

/郡司和斗

 

ではまた(^^)/~

第62回短歌研究新人賞授賞式 スピーチ原稿

去年の新人賞に応募してからそろそろ一年が経ちそうなので、受賞のスピーチ原稿を載せます。今後、誰かがスピーチを考える際の参考になればうれしいです。僕自身もめちゃめちゃ他の人のスピーチ原稿を読んで参考にしたので。

 

※この原稿は授賞式の「スピーチ」で発言したもので、「短歌研究」9月号に掲載された「受賞の言葉」ではありません。

 

 

 

(司会の人から、続いて新人賞の郡司和斗さまお願いします、と言われる)

ただいまご紹介にあずかりました、郡司和斗と申します。このたびは、第62回短歌研究新人賞受賞という大変光栄な機会をいただきまして、うれしくありつつも、いまだに信じられない思いです。選考委員の皆様ならびに短歌研究社様には厚く御礼申し上げます。また、普段からお世話になっている大学の短詩会のみんな、歌林の会の皆様、蒼海俳句会の皆様、北赤羽歌会の皆様、そして家族に、感謝の気持ちを伝えたいと思います。

 

短歌を書きはじめてまだ数年ですが、「ルーズリーフを空へと放つ」という連作が当選作の一つに選ばれたことを大変うれしく思っています。この連作は、誌面の選評でも少し触れていただいた通り、季節の流れや他者の存在を大切にして、外の世界とのつながりを意識してこの連作を作りました。

 

この言い方が適切かはわかりませんが、今、社会的な孤立や排除、生きることの苦しさを詠む歌がますます多くなっていると思います。都市生活の孤独感やワーキングプア、自己の出生の否定などは、とても共感を覚えますし、また、私自身も、そのような枠でくくられる短歌を多く書いています。実際、かりん賞の授賞式では「都市の若者の孤独感がよく出ている」等の選評を受けました。ですが、その方向で歌い続けることが、大きく広がった社会の谷のようなものを超えることに繋がるのかというと、それはとても疑問に思っています。むしろそれらの歌は、孤独な人/社交的な人 被害者/加害者 労働者/資本家、といった、単純な二項対立の構造を深めていくことになってしまうのではないでしょうか。

 

このような思いを持っていたものですから、「ルーズリーフを空へと放つ」で受賞することには、新人賞受賞という単なる希少性の獲得とは別に自分のなかで大きな意味がありました。それは、空虚さや虚無感を表現するにしても、自分にそれを引き寄せて、自分だけの苦しさとして書くのではなく、他者や世界との関係性のなかで書くということであり、詩歌でやっていきたいことの一つでもありました。

 

新人賞は、作品を発掘する場ではなく、あたらしい作家を発掘する場だと思っています。新しく新鮮な風を吹かせられるかどうかはわかりませんが、誰かのこころにそっとよりそうような短歌を書く歌人になりたいと思います。以上で挨拶に替えさせていただきます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

阿部圭吾の短歌

花びら、と君の向こうを指差せば君が払うまぼろしの花びら/阿部圭吾「春の公園」『早稲田短歌49号』

 

最近、阿部くんの作品をどんどん好きになっている。この歌はわせたんの歌会で読んだのが最初だろうか。一読して、まずは構造に目がいく。かなり短歌そのものの財産となっている、上の句と下の句を鏡合わせにする、という構造をとっている。

 

この構造を使う効果としては、短歌の呪文性がより増す、というのが挙げられるだろう。そもそも短歌自体が呪文のよう(やたらみんな諳じて唱える)というか、呪術性の高いものだと思うが、その性質をより強化してくる。

 

呪文性が強化されるとどうなるのかというと、実用的な話から言うと暗唱されやすくなる、覚えてもらいやすくなる、ということになると思う。少しセコいことを僕が書いているように思われるかもしれないが、別に何かを暴きたいとかそういう訳じゃない。作品をいかにみせるかという点で、僕は完全無垢に見える(見せかける)作品よりもこういう作品のほうが信頼できる(できた)ということ。

 

で、作品世界の中でどう呪文性の強化が作用しているかを考えるほうがたぶん大切だと思う(のだけど)。作品世界の中では、それこそこの歌で言っちゃってる〈まぼろし〉感のようなものが、鏡合わせ構造をとることで、一首にまとわりついているのかな、と考えている。

 

(いきなりだけど、この歌じゃない話をします、ごめんなさい)

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり/永井陽子『モーツァルトの電話帳』

という超有名な歌があるのだけど、この歌も歌の世界は〈まぼろし〉だと僕は思っている。ひまわり畑の光景が浮かぶけれども、それはなんだか、遠くて、霞がかっていて、夢の中みたいだ。そしてその〈まぼろし〉感がなぜ表れてくるのかを考えたとき、鏡合わせという構造が〈まぼろし〉感の出現を支えているのかな、という思いに至った(フレーズの反転した繰り返しによって生み出る残像、〈の〉のつながりによるずらし、語が重複しているにもかかわらず増える情報量によるバグ感、などなどの理由から)。

 

 

阿部くんの歌に戻ると、この歌もまぼろしなんだよな。まぼろしのような歌の世界の中で君がまぼろしの花びらを払うというまるでまぼろしのような光景がひろがるという、夢が覚めても夢の中、みたいな、ドラえもんでそんな話あったな、みたいなことになっている。

 

このまぼろしの重層性が、うつくしさと同時におそろしさとかも連れてきて、歌の世界に綺麗なものだけでなく、カオスも生み出しているのだと思う。俗に言う〈奥行きがある歌〉的な。

 

 

かなり当たり前のことをつらつらと書いたけど、結論は、阿部くんの歌いいな…ということです。阿部くんは間違いなく同世代の中でもすごい作家になると、僕は確信しているので、これからも作品を、読んで、いくぜ!

 

おわり

 

 

 

 

鈴木ちはねの短歌

大雨のニュースを見てる 意味もなく必要以上に部屋を暗くして/鈴木ちはね「スイミング・スクール」

 

最初から鈴木さんの歌の話とは離れていくんだけど、こういう感じの文体の歌って、豚骨ラーメンと佐野ラーメンを同時に食べている気分になれる、すごい。意味内容を深く読みにいこうとすれば別にいくらでも読めるけど、基本的にはそんなに誘ってくる歌ではない、と思うんだよなー。そういう、流して読める歌である一面を持っているところが、佐野ラーメン感を醸し出しているんだと思うんだけど、どうなんでしょう。

 

で、豚骨ラーメン感はどこからくるのかとというと、やっぱり文体の開発を感じるからだと思う。短歌史の先端は今こういう歌になっているんだな、みたいな意味の文体の開発でもあるし、(僕は鈴木さんの初期の歌とかぜんぜん知らないけれど、)なんかいろいろ経てこういう文体になってんのかなという意味での文体の開発でもある。豚骨ラーメン感がうんたらなんたらって言うのはなんか短歌オタクみたいで嫌だけど。

 

ブツギリの感想

『手のひらの海』平山繁美

 

作者は1970年生まれ。香川県出身。2016年に短歌研究新人賞最終候補とある。現在は看護師として勤めているらしく、歌集にもそれに関連した歌が多い。


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落書きに見える数字を手にかきしあの人もまた看護師だろうか

看護師の慌ただしい日常が、落書きに見えるという言葉から読み取れる。

 

 

三面鏡のなかに何人いるのだろうひとつに纏めこの世に立てり

別世界の自分もいる、みたいな視線。自ら纏めているのがおもしろい。

 

 

ひとたびを目蓋は開かず母に似る長き睫毛がこの世に触れる

睫毛を見つける繊細さ。〈この世〉という大げさな把握も、この歌ではそこまで嫌みがない。

 

 

水音が聞こえるらしいはらってもはらっても吾に寄りくる蛍

一番好きな歌。馬場あき子の〈身に水流の音ひびくなり〉の歌を思い出した。はらってもはらってものあたりに、自然に対する屈折が見える。

 

 

プーさんの口を通して子は話す(ここはいえだよ、おかあさんだよ)

歌集を通して読むと、子どもが一度施設(孤児院?)に入り、その後主体によって迎えに来られているというストーリーが浮かぶ。腹話術に妙なあたたかみがある。

 

 

ぼくのふく ぼくのながぐつ ぼくのはし ぼくぼくぼくがいっぱいあるね

平山さんの歌集は、文脈の作りがかなり上手い。特に、子どもとの関係性を描く歌にそれが光っている。

 

 

黙祷の時間増えゆく地球(ほし)に生く手のひらの地図をひたりと合わせ

巻頭歌。自然を通して、生死に対する重層的なまなざしを向けている。作者の作歌姿勢が象徴された一首と思う。